「第六次イゾンツォの戦い」の版間の差分

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|place=イタリアの[[ゴリツィア]]付近
|result=イタリアの勝利
|combatant1={{ITA1861}}
|combatant1=[[Image:Flag of Italy (1861-1946) crowned.svg|25px]] [[イタリア王国]]
|combatant2={{AUT1867}}
|combatant2=[[Image:Flag of Austria-Hungary 1869-1918.svg|25px]] [[オーストリア・ハンガリー帝国]]
 
|commander1=[[Image:Flag{{Flagicon|ITA1861}} of Italy (1861-1946) crowned.svg|22px]] [[ルイージ・カドルナ]]
|commander2=[[Image:Flag of Austria-Hungary 1869-1918.svg|border|22px]]  [[スヴェトザル・ボロイェヴィッチ]] 
|strength1=[[Image:Flag{{Flagicon|ITA1861}} of Italy (1861-1946) crowned.svg|22px]] 22個師団
|strength2=[[Image:Flag of Austria-Hungary 1869-1918.svg|border|22px]]  9個師団
|casualties1=[[Image:Flag{{Flagicon|ITA1861}} of Italy (1861-1946) crowned.svg|22px]] 死傷者数51000人
|casualties2=[[Image:Flag of Austria-Hungary 1869-1918.svg|border|22px]]  死傷者数40000人
}}
 
'''第六次イゾンツォの戦い'''(だいろくじイゾンツォのたたかい)とは、ゴリツィアの戦いとしても知られる、[[第一次世界大戦]]中の、イタリアが[[イゾンツォ川]]に沿って勝利を収めた会戦である。
 
オーストリアハンガリー帝国の[[フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ]]は、[[アジアーゴの戦い]]で、イゾンツォ戦線の軍の数を減らしていた。イタリアの最高指揮官[[ルイージ・カドルナ]]は弱くなったオーストリアハンガリーの守りを攻めるために、[[トレンティーノ]] (Trentino) から鉄道を上手く利用し、素早く軍を送り込んだ。8月6日、ゴリツィアで衝突があり、攻撃が開始された。[[8月8日]]にゴリツィアがカドルナに落とされ、イゾンツォ川を渡す橋頭堡がつくられた。オーストリア・ハンガリー軍は、防衛線を突破されるのを防ぐために、前線のゴリツィアに軍を送った。だが、橋頭堡を確保することに満足したカドルナは、8月17日に攻撃を終了した。
 
ゴリツィアへの攻撃は、イゾンツォ戦線に沿って行われたイタリアの攻撃の中で最もうまくいったもので、軍の士気が高まることにつながった。そして、[[8月28日]]、イタリアは[[ドイツ帝国|ドイツ]]に逆らい、宣戦布告をした。
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