「片岡仁左衛門 (11代目)」の版間の差分

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[[片岡仁左衛門 (8代目)|八代目片岡仁左衛門]]の四男として江戸猿若町に生まれる。3歳のとき片岡秀太郎の名で初舞台。[[1862年]]([[文久]]2年)父、および兄我童(のち[[片岡仁左衛門 (10代目)|十代目仁左衛門]])とともに大阪に行く。翌[[1863年]](文久3年)の父の死後、ちんこ芝居で修業を続け、[[1872年]]([[明治]]5年)ごろより大阪竹田の芝居などに出演しその才能が認められる。[[1874年]](明治7年)ごろ東京に兄我童とともに戻る。[[1876年]](明治9年)3月、中村座で三代目我当襲名。その後東京と大阪を往復しながら活躍。[[1895年]](明治28年)年に兄の死後、松島屋の芸の後継者として認められ、[[1907年]](明治40年)年大阪角座で十一代目片岡仁左衛門を襲名する。その後は東京に腰を据えて、歌舞伎座の座頭となる。[[中村歌右衛門 (5代目)|五代目中村歌右衛門]]、[[市村羽左衛門 (15代目)|十五代目市村羽左衛門]]とともに「三衛門」として君臨。團菊左亡き後の東京歌舞伎界を支えたのである。また、彼の上京は、当時歌右衛門襲名を巡って大阪の[[中村鴈治郎 (初代)|初代中村鴈治郎]]と東京の[[中村芝翫]]との間に争いが起こり、仁左衛門が芝翫を支持したために鴈治郎関係者の反発を買って居辛くなったという説がある。
 
天才肌の名人であったが、個性が強く、[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]や鴈治郎と衝突をくり返すトラブルメーカーであった。團十郎の態度が気腹を立て、いらずわざと團十郎の前に立って傘を開いて見得をしたり、て関係者を怒らせる。気に入らぬことがあれば台本を持ってきて舞台に出る。落ちているゴミをひらいながら演技をしたり、『熊谷陣屋』の弥陀六役で、上手から刀を投げて舞台に出なければいけないのに、邪魔な奴が立っているので下手から出て芝居をぶちこわす。『国姓爺・紅流たなどエピソードが無数に有る。また和藤内ではライバル鴈治郎と競争す片足をかけとき橋の高さが気劇場入らない「大敵化粧を落て恐るるなかれ。小敵とて侮るなかれ」と大書た幟を立て、士気を鼓舞帰宅するなど、負けず嫌いな面もあれば、立場弱い者エピソードが無数は進んで援助すなどの義侠心に富む面もあり、父に死に別れた[[實川延若 (2代目)|二代目實川延若]]や七代目沢村宗十郎を引きたてたりした
 
 
また、ライバル鴈治郎と競争するときに劇場の前で「大敵とて恐るるなかれ。小敵とて侮るなかれ」と大書した幟を立てて、士気を鼓舞するなど、負けず嫌いな面もあれば、立場の弱い者には損得勘定抜きで援助するなどの義侠心に富む面もあり、父に死に別れた[[實川延若 (2代目)|二代目實川延若]]や七代目沢村宗十郎に目をかけ名優への道を歩ませた。
 
 新作にも力を入れ、[[坪内逍遥]]作の『桐一葉』をはじめ『桜時雨』『名工柿右衛門』などを初演。人形浄瑠璃のみの狂言であった「大文字屋」「鰻谷」を歌舞伎化するなど、新しい芝居を作る才能に秀でていた。後継者の育成では、実子の千代之助([[片岡仁左衛門 (13代目)|十三代目仁左衛門]])のために私財を投じて[[1912年]](明治45年)「片岡少年俳優養成所」を設立。若手俳優への芸の伝承にも尽くした。初代中村鴈治郎とは一時不仲を噂されるほどの対立関係にあったが、それだけに芸のライバルとして張り合い、互いに研鑚しあっていた。十三代目の著書には、晩年は舞台に競演しプライベートの面でも仲が良かったとある。
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