「酒井家次」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
松浸史 (会話 | 投稿記録)
追加
松浸史 (会話 | 投稿記録)
12行目: 12行目:
{{先代次代|[[臼井藩|酒井氏(臼井藩)藩主]]|1590~1604|-|廃藩}}
{{先代次代|[[臼井藩|酒井氏(臼井藩)藩主]]|1590~1604|-|廃藩}}
{{先代次代|[[高崎藩|酒井氏(高崎藩)藩主]]|1604~1616|[[井伊直政]]|[[松平康長]]}}
{{先代次代|[[高崎藩|酒井氏(高崎藩)藩主]]|1604~1616|[[井伊直政]]|[[松平康長]]}}
{{先代次代|[[高田藩|酒井氏(高田藩初代)藩主]]|1616~1618|[[松平忠輝]]|[[酒井忠勝]]}}
{{先代次代|[[高田藩|酒井氏(高田藩初代)藩主]]|1616~1618|[[松平忠輝]]|[[酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)|酒井忠勝]]}}


{{生没年|さかいいえつく|1564年|1618年}}
{{生没年|さかいいえつく|1564年|1618年}}

2007年1月21日 (日) 04:54時点における版

酒井 家次さかい いえつぐ永禄7年(1564年) - 元和4年3月15日1618年4月10日))は戦国時代から江戸時代の人物。徳川氏の家臣。酒井忠次の嫡男。母は徳川家康の祖父・松平清康の娘で、家康の従兄弟にあたる。臼井藩主、高崎藩主、高田藩主。

生涯

幼少より家康の家臣として仕え、1588年、父の忠次の隠居に伴って家督を継いだ。1590年小田原征伐後、家康から下総国臼井(碓井)に3万7000石を与えられる。しかし、松平信康の自害事件などが尾を引いて、父同様に家康からは疎まれていたとも言われている。関ヶ原の戦いでも活躍した。

1604年上野国高崎5万石に移封。その後は江戸城の留守居役や、大坂の陣では、力戦して数多くの敵を倒し活躍したと言われている。1616年越後国高田城主。10万石に移封、1618年に55歳で死去。

関連項目

先代
-
酒井氏(臼井藩)藩主
1590~1604
次代
廃藩
先代
井伊直政
酒井氏(高崎藩)藩主
1604~1616
次代
松平康長
先代
松平忠輝
酒井氏(高田藩初代)藩主
1616~1618
次代
酒井忠勝