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ダブルスでのクッツァーは、[[1993年]]の[[1993年全米オープンテニス|全米オープン]]で[[イネス・ゴロチャテギ]]([[アルゼンチン]])とペアを組んだ準優勝がある。クッツァーとゴロチャテギは、決勝で[[アランチャ・サンチェス]]&[[ヘレナ・スコバ]]の組に 4-6, 2-6 で敗れた。 |
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日本でプレーした回数も多く、毎年2月に[[東京体育館]]で開かれる「[[東レ・パン・パシフィック・テニス]]」でも出場常連選手のひとりだった。[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]でテニスの一時代を築いたアマンダ・クッツァーは、[[2004年]]6月に32歳で現役を引退した。 |
日本でプレーした回数も多く、毎年2月に[[東京体育館]]で開かれる「[[東レ・パン・パシフィック・テニス]]」でも出場常連選手のひとりだった。[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]でテニスの一時代を築いたアマンダ・クッツァーは、[[2004年]]6月に32歳で現役を引退した。 |
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* [[全米オープン (テニス)|全米オープン]]:ベスト8(1994年、1996年、1998年) |
* [[全米オープン (テニス)|全米オープン]]:ベスト8(1994年、1996年、1998年) [女子ダブルス準優勝:1993年] |
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== 関連項目 == |
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2007年1月15日 (月) 03:34時点における版
アマンダ・クッツァー(Amanda Coetzer, 1971年10月22日 - )は、南アフリカの元女子プロテニス選手。身長158cm、体重54kg。女子プロテニス界では最も小柄な体格だったが、どんな球をも粘り強く拾いまくる強靭なフットワークを最大の持ち味にした。シングルス自己最高ランキングは3位。WTAツアーでシングルス9勝、ダブルス9勝を挙げる。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。クッツァーは女子プロテニス界の仲間たちからも「最もエースを取りにくい選手」として警戒されていた。
1988年1月にプロ入り。1989年の全仏オープンで4大大会にデビューする。1992年全米オープンから2004年全豪オープンまで、4大大会に「46大会」連続出場記録を持っている。1993年1月の「メルボルン・オープン」決勝戦で日本の沢松奈生子を破り、WTAツアー初優勝。この年は9月に東京・有明コロシアムで開かれた「ニチレイ・レディース」でも優勝している。(この大会は1990年に創設され、1996年までニチレイ・レディースの名称であったが、1997年に「トヨタ・プリンセス・カップ」の名称に変更され、2002年限りで開催中止となったトーナメントである。)1996年の全豪オープンでは、当時15歳の天才少女マルチナ・ヒンギスを準々決勝で破ったが、続く準決勝でアンケ・フーバーに 6-4, 4-6, 2-6 で敗れている。1997年の全豪オープン4回戦で、当時の世界ランキング1位だったシュテフィ・グラフを 6-2, 7-5 のストレートで破り、2年連続のベスト4に入る。1997年に、クッツァーはグラフから年間3勝を挙げた。5月中旬の「ドイツ・オープン」準々決勝では 6-0, 6-1 で圧勝し、続く全仏オープン準々決勝でも 6-1, 6-4 のストレート勝ちを収めた。(グラフはこの頃、左膝の故障が深刻になっていた。全仏準々決勝でクッツァーに敗退した後、直ちに手術を受けて全治6ヶ月と診断された。)これらの勝利で、クッツァーには「小さな暗殺者」というニックネームがついた。
その後もクッツァーは小さな身体に秘めた闘志でテニス・コートを走り続け、2001年の全豪オープンでベスト8に進出している(ヴィーナス・ウィリアムズに敗退)。
ダブルスでのクッツァーは、1993年の全米オープンでイネス・ゴロチャテギ(アルゼンチン)とペアを組んだ準優勝がある。クッツァーとゴロチャテギは、決勝でアランチャ・サンチェス&ヘレナ・スコバの組に 4-6, 2-6 で敗れた。
日本でプレーした回数も多く、毎年2月に東京体育館で開かれる「東レ・パン・パシフィック・テニス」でも出場常連選手のひとりだった。南アフリカでテニスの一時代を築いたアマンダ・クッツァーは、2004年6月に32歳で現役を引退した。