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「宇喜多宗因」の版間の差分

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'''宇喜多 宗因'''(うきた そういん、生没年不詳)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[人物]]。[[宇喜多久家]]の次男で、兄に[[宇喜多能家]]、弟に[[浮田国定]]がいる。浜城主([[岡山市]][[東区 (岡山市)|東区]][[西大寺 (旧市)|西大寺]]浜)と伝えられるが、詳しい業績はほとんど明らかではない。[[寛政]]年間に地元の有志が[[宇喜多氏]]の偉業を偲び、宗因の墓所に[[浮田神社]]を建立した。現在は、浮田神社の敷地内と思しき場所に宗因の墓と伝えられる蘭塔がある。
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2024年4月5日 (金) 01:40時点における最新版

宇喜多 宗因(うきた そういん、生没年不詳)は、戦国時代人物宇喜多久家の次男で、兄に宇喜多能家、弟に浮田国定がいる。浜城主(岡山市東区西大寺浜)と伝えられるが、詳しい業績はほとんど明らかではない。寛政年間に地元の有志が宇喜多氏の偉業を偲び、宗因の墓所に浮田神社を建立した。現在は、浮田神社の敷地内と思しき場所に宗因の墓と伝えられる蘭塔がある。