滝川一時

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滝川一時
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄11年(1568年
死没 慶長8年6月2日1603年7月10日
別名 八郎、久助
戒名 宗源
墓所 牛込松源寺
幕府 江戸幕府
主君 織田信長豊臣秀長徳川家康秀忠
氏族 滝川氏
父母 父:滝川一益、母:不詳
兄弟 一忠一時辰政、知ト斎、津田秀政
一乗
特記
事項
1万2000石を領する大名であったとする説あり。
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滝川 一時(たきがわ かずとき / いちとき[1])は、戦国時代から江戸時代の武将。

生涯[編集]

永禄11年(1568年)、滝川一益の次男として誕生した。幼少から織田信長に仕え、伊勢亀山、近江甲賀郡に所領を有した。

天正10年(1582年)の本能寺の変の後、関東から逃げ帰ってきた父を迎え、羽柴秀吉と対立する。しかし天正11年(1583年)、味方した柴田勝家織田信孝賤ヶ岳の戦いで秀吉に攻め滅ぼされたために、父と共に秀吉に降伏し、所領を没収された。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは秀吉方として従軍し、蟹江城合戦徳川家康織田信雄連合軍に敗れた。秀吉からは参戦の恩賞として1万2千石の所領を宛てがうとする判物を与えられたが、身柄は豊臣秀長に預けられた[1]。なお、兄の一忠は敗戦の責任を取らされて追放されている。

天正20年(1592年)に富田一白を通して、家康から秀吉に対し一時の譲渡の申し入れがあり、翌文禄2年(1593年)に徳川家にも下総国芝原、五反田、板川、上大蔵、中田、富田、谷津、山田、和田、成山郷など2千石を与えられた[1]

慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いでは家康本隊の一員として戦っている[1]

慶長7年(1602年)から徳川秀忠に仕えたが、翌慶長8年(1603年)に病に倒れ36歳で死去した。秀忠は本多正重を見舞わせたが、正重が途中で訃報を聞き引き返しこれを伝えたため、「勇者(滝川一益)の子孫ことに扶助あるべきを、不幸にして世を早くせし」と惜しんだという[1]

家督は2歳の一乗が継いだが、すでに成人している兄一忠の子の一積が名代に立てられた。

脚注[編集]

参考文献[編集]