源国明
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 康平7年(1064年) |
死没 | 長治2年4月17日(1105年6月1日) |
別名 | 藤原国明 |
官位 | 正四位上、内蔵頭、伊予守 |
主君 | 白河上皇 |
氏族 | 藤原北家中関白家→醍醐源氏 |
父母 |
父:藤原師基、母:源定良の娘 養父:源俊明 |
兄弟 | 養兄弟:能俊、実明、能明、明賢、憲明、俊源、増俊、隆絮、静観、藤原忠教継室 |
妻 | 不詳 |
子 |
源信雅室?、源雅俊室 養子:為忠 |
源 国明(みなもと の くにあき)は、平安時代後期の貴族。藤原北家中関白家、若狭守・藤原師基の子。官位は正四位上・伊予守。史料上では源・藤原両姓の表記が錯綜している。
経歴
[編集]父の婿であった源俊明の養子となる。左衛門佐を経て、白河院政期初頭の寛治2年(1088年)ごろ越後守に任ぜられると、寛治7年(1093年)備前守、康和4年(1102年)伊予守と白河院政期前半に受領を歴任。この間に、承徳2年(1098年)正四位下に叙せられている。白河天皇の乳母子であり白河院庁の執行別当を務めた。
長治2年(1105年)正月に正四位上に昇叙されるが、4月上旬より熱病を発し、4月17日に卒去。享年42。最終官位は伊予守正四位上。国明が没した知らせを受けて白河院は非常に嘆き、翌日予定していた祭の見物を急遽取り止めたという[1]。
官歴
[編集]- 時期不詳:左衛門佐[1]
- 寛治2年(1088年) 2月22日:見越後守[2]
- 寛治7年(1093年) 7月16日:備前守[3]
- 承徳2年(1098年) 7月9日:正四位下[1][4]
- 康和3年(1101年) 6月6日:見内蔵頭兼備前守[5]
- 康和4年(1102年) 正月23日:伊予守[5]。7月21日:重任[1][6]
- 康和5年(1103年) 8月17日:昇殿[7]
- 長治2年(1105年) 正月5日:正四位上[1]。4月17日:卒去[1]
系譜
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- 『国史大辞典 第13巻』吉川弘文館 国史大辞典編集委員会(編)ISBN 4642005137
- 宮崎康充編『国司補任 第五』続群書類従完成会、1990年