源兼資
時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 天徳4年(960年) |
死没 | 長保4年8月6日(1002年9月15日) |
官位 | 正四位下、左馬権頭 |
主君 | 円融天皇→花山天皇→一条天皇 |
氏族 | 文徳源氏 |
父母 | 父:源惟正、母:藤原国章の娘 |
兄弟 | 遠古、遠節、遠理、兼宣、惟明、兼業、兼資、兼相、藤原実資室 |
妻 | 藤原穠子(藤原為光の娘)[1] |
子 | 頼仲?、頼兼?、藤原隆家室、源成信室、女子 |
源 兼資(みなもと の かねすけ)は、平安時代中期の貴族。文徳源氏、参議・源惟正の三男。官位は正四位下・左馬権頭。
経歴[編集]
始め近江掾に任官したのち従五位下に叙せられる。治部輔を経て薩摩守に任ぜられるが、治績を以て昇叙された。その後は、頻りに美濃国司に任ぜられ、長徳年間に伊予守に任ぜられた。伊予国では前任国守の藤原知章の頃に疫病が蔓延して人々が死亡したため田畝が減少していたが、兼資の統治により亡弊の噂は特に聞こえなかったという[2]。伊予守の任期が満了して京に戻ると、伊予の諸郡の郡吏らが上洛して、兼資の治能をもって重任を請ったという[3]。任中に左馬権頭を兼任。
長保4年(1002年)7月の末から寝食が通常を失い、左馬権頭の辞職を請って辞任する。長保4年(1002年)8月6日の辰刻に出家し、同日の巳刻に卒去。享年43。最終官位は前左馬権頭正四位下。
官歴[編集]
『権記』による。
系譜[編集]
子に『尊卑分脈』には頼仲・頼兼を挙げるが、『権記』では三女はあっても一男も無しとされる。