津田重長

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津田 重長(つだ しげなが、? - 寛永2年〈1625年〉)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武士。津田流の砲術家

通称は平八、監物[1]津田算正の次男で、子に重信、正貞、算茂、正徳がいる。

生涯[編集]

紀伊国那賀郡[2]小倉荘(現在の和歌山県和歌山市岩出市[2])の土豪である津田算正の次男として生まれる[3]。兄・刀祢楠は天正5年(1577年)に切腹しており、重長が家督を継いだ[1]

重長は大和国郡山城主の増田長盛に仕え、慶長5年(1600年)、鉄砲衆50人を率いて関ヶ原の戦いに参戦したという[1]。その後、浅野幸長小早川秀秋に仕え、慶長7年(1602年)に秀秋が死去した後、美濃国加納松平忠政忠隆に300石で仕えた[4]

元和5年(1619年[5]徳川頼宣が紀伊に入国した際、鉄砲に関して有用な人材として重長を召し抱えようとしたが、重長は固辞したとされる[1]。重長は津田流砲術の伝書において、津田自由斎から津田流を継承したとされており[6][7]、父・算正や自由斎と同様、鉄砲の腕に優れていたとみられる[7]。また、津田流が砲術として確立したのは、重長や奥重政の代であると考えられる[1]

寛永2年(1625年)、重長は死去した[8]

子息[編集]

重長の子のうち、長男・次男・四男は美濃加納藩に仕え、三男の算茂は江戸へと赴いた[9]

津田流砲術は長男・重信が継承した[9]。重信が加納で死去した後、その長男の算義が津田流を継いだとみられるが[8]、寛永9年(1632年[10]に松平忠隆が没して主家が断絶すると、算義は病身のため紀伊に戻り、砲術から身を引いたという[8]

重長の次男・正貞は小姓と口論になり、加納藩を退去した[8]。のち紀伊国那賀郡吉田中野黒木(岩出市)に住んだ[8]

四男・正徳は寛永4年(1627年)に加納から紀伊に戻り、寛文6年(1666年)に紀州藩に40石で召し出された[8]。長兄・重信の死後、津田本家の家督は正徳が継いでいる[8]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 太田 2005, p. 16.
  2. ^ a b 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 30 和歌山県』角川書店、1985年、247–248頁。ISBN 4-04-001300-X 
  3. ^ 太田 2005, pp. 15–16.
  4. ^ 太田 2005, pp. 16, 18.
  5. ^ 和歌山市史編纂委員会 編『和歌山市史 第2巻 近世』和歌山市、1989年、105頁。全国書誌番号:89060183 
  6. ^ 『津田流口訣記第五巻』不明、1629年。 
  7. ^ a b 太田 2005, pp. 14–16.
  8. ^ a b c d e f g 太田 2005, p. 17.
  9. ^ a b 太田 2005, pp. 16–17.
  10. ^ 太田成和 編『加納町史 上巻』(複刻版)大衆書房、1980年(原著1954年)、197–198頁。全国書誌番号:86012669 

参考文献[編集]

  • 太田宏一「津田流砲術と奥弥兵衛について」『和歌山市立博物館研究紀要』第19号、2005年。