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沢宗久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
沢宗久
時代 戦国時代後期 - 江戸時代初期
生誕 永禄10年(1567年
死没 寛永19年5月8日1642年6月5日
別名 宏直、九郎次郎、九郎兵衛
戒名 伝久、空玄
幕府 江戸幕府鳥見、奥方番
主君 豊臣秀次徳川秀忠
父母 余語宗重沢宏茂
長左衛門久吉高屋種久
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沢 宗久(さわ むねひさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将

生涯

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祖父の余語景宗、父宗重織田信長に仕える。伊勢大河内城の戦いで戦死した沢佐右衛門の家督を継承する。

当初は豊臣秀次に仕えたが、秀次没後の慶長元年(1596年)からは徳川秀忠に仕える。慶長5年(1600年会津征伐から関ヶ原の遅参、大坂入城まで秀忠に従う。また慶長19年(1614年)からの大坂の陣のいずれにも従い、戦後に褒賞として黄金を賜ったが、酒井忠世ら幕府重臣らからは「感状に等しい」と称された。

元和2年(1616年)に武蔵国足立郡に160余石を賜り、鳥見に任じられる。寛永3年(1626年)秀忠・家光父子の上洛に随行。寛永19年(1642年)武蔵国幡羅郡に加増されて270石となった。同年に死去。

出典

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