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江島生島事件

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江島生島事件(えじまいくしまじけん)とは江戸中期、大奥女中の絵島歌舞伎役者生島新五郎ら多数が処罰された風紀粛正事件である。絵島生島事件絵島事件ともいう。

経緯

正徳4年1月12日1714年2月26日)、江戸城大奥の御年寄・江島は仕えている月光院の名代として前将軍家宣の墓参りのため、宮路らと共に寛永寺増上寺へ参詣。その帰途に懇意にしていた呉服商・後藤縫殿助の誘いで木挽町(現在の東京都中央区東銀座界隈。歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座にて生島の芝居を見た。芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開いたが、宴会に夢中になり大奥の門限に遅れてしまった。大奥七ツ口の前で通せ、通さぬの押し問答をしている内にこの事が江戸城中に知れわたる事になり、評定所が審理することになった。

当時の大奥には、現将軍・家継の生母・月光院を中心とする勢力と前将軍・家宣の正室・天英院を中心とする勢力とがあった。月光院が家継の学問の師である新井白石側用人間部詮房らと親しい事から、大奥では月光院側が優勢であった。この事件は天英院側にとって、勢力を挽回するための絶好の機会であった。天英院は家宣・家継の元で幕政を牛耳っていた新井白石・間部詮房を追い落とすため、譜代大名関ヶ原の戦い以前からの徳川氏の家臣)や5代将軍・綱吉時代からの老中達とこの事件を画策したという説がある。

顛末

評定所によって関係者が徹底的に調べられ、それにより大奥の規律の緩みが次々と明らかにされた。江島は生島との密会を疑われ、評定所から下された裁決は死一等を減じての遠島(島流し)。連座して、旗本であった江島の兄の白井平右衛門は武士の礼に則った切腹ではなく斬首、同弟は重追放となった。月光院の嘆願により、江島についてはさらに罪一等を減じて高遠藩お預けとなったが、事実上の流罪であった。江島の遊興相手とされた生島は三宅島への遠島、山村座の座元も伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座。この巻き添えを食う形で江戸中にあった芝居小屋は簡素な造りへ改築を命ぜられ、夕刻の営業も禁止された。このほか、取り巻きとして利権を被っていた大奥御殿医の奥山交竹院とその弟の水戸藩士、幕府呉服師の後藤とその手代、さらには材木商らも遠島や追放の処分を受けるなど、大奥の風紀粛正のために多数の連座者が出された。最終的に1500名余の人々が罰せられたと言われている。

この事件により天英院側が優勢となり、2年後の正徳6年(1716年)に家継が亡くなると、天英院が推していた(月光院が推していたとする説もある)紀州の徳川吉宗が次の将軍となった。そのため、この事件が将軍決定を巡る謀略との見方もあるが、幕府を牛耳っていた白石・詮房を追放するために天英院と譜代大名や老中がスキャンダルをでっち上げたという説もある。

文学と芸能

この事件について、明治以降、芝居の演目に取り上げられるようになる。また昭和28年(1953年)、東京新聞に連載された舟橋聖一の小説「絵島生島」が巷で評判となり、事件のあらましが世の人々に広く知れ渡った。更にこの小説は脚本化され歌舞伎座で上演されるようになる(この歌舞伎や多くの芝居物では、江島が生島を大奥に連れ込んで情事に及んだ事になっているが、それはあくまで脚色で事実ではないとされている)。以降、多くの小説家がこの事件をテーマに小説を執筆、また他にも長唄に詠まれたり、最近では映画やテレビドラマにも取り上げられている。

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