永昌大君

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永昌大君(えいしょうたいくん、ヨンチャンデグン、영창대군万暦34年3月6日1606年4月12日) - 万暦42年2月10日1614年3月19日))は、李氏朝鮮の第14代国王宣祖の末子で唯一の嫡出子。名は㼁(ウィ、)。母は仁穆王后

永昌大君が生まれると、嫡流の後継者を望んでいた宣祖は次男(庶子)の光海君の代わりに永昌大君を世子に冊封しようと考え、柳永慶など小北派の支持を受けた。しかし、1608年に宣祖が急死すると、幼少の永昌大君ではなく光海君が即位した。

1613年七庶獄事が起こると、李爾瞻率いる大北派の操作によって永昌大君と仁穆王后の父である金悌男に疑いがかけられた。金悌男は賜薬に処せられ、永昌大君は姉の貞明公主とともに、庶人(平民)に降格の上、江華島に流刑にされた。1614年2月10日、江華府使の鄭沆の手により極端に温度を上げたオンドル部屋に監禁され自身が寝ている間に蒸殺焚刑)され、9歳(数え年)で死去した。ちなみにこの処罰法は朝鮮史上、大変罪の重い処罰法とされている。貞明公主はその後も生きていた。

1623年3月13日、仁祖の即位に伴い名誉を回復した。墓は京畿道安城市にある。

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