武昌起義

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武昌市街図・各隊の進攻

武昌起義(ぶしょうきぎ)または武昌蜂起(ぶしょうほうき)は、1911年10月10日に中国(清朝)の武昌で起きた兵士たちの反乱。辛亥革命の幕開けとなる事件である。

事件の背景[ソースを編集]

1906年に清朝は「立憲政府」の原則を認めたが、3歳の宣統帝(溥儀)を擁する皇族・宮廷の権限は強かった。1910年に各省に省諮議局が生まれたとはいえ、それは厳重に制限されたものであり、皇帝があらかじめ定めた議題をただ討議する権利が与えられただけであった。1911年5月、清朝は皇族内閣を組織し、国会即時開設を要求していた温世霖中国語版を新疆に左遷して立憲主義者たちを失望させ、列国資本を背景にして全幹線国有を宣言して、四川・広東湖南における土着の新興資本家たちを刺激している。

四川出兵[ソースを編集]

鉄道国有に対する反対が特に激しかった四川では、成都から資州、永川を経て重慶に至る一帯で、示威として一切の商業取引を中止し、学校を閉鎖した。1911年9月初め代理総督として着任していたばかりの趙爾豊は、示威運動に脅されて鉄道国有の期限延期を政府に要請したが、政府はかえってその軟弱を責め、端方に兵を与え即刻四川に入るように命じた。端方は湖北新軍の2聯隊を率いて四川に到着する。9月15日に鉄道株主会長を筆頭とした代表たちは派兵中止を訴えに総督府に赴くが、総督は代表者5名を拘禁し、その釈放を求めて押し寄せた群衆に発砲させ、約40名が殺傷された。「乱民暴動格殺勿論」という政府命令によって、すでに各県で起きていた愛国示威運動はますます激化し、重慶は民衆に占領されかかっていた。端方は資州で阻まれて赴任できず、応援に派遣された前四川総督は、形勢におびえ漢口に足踏みしていた。

同盟会の影響[ソースを編集]

捕らえられた革命家
武昌にある湖北軍督府跡(紅楼)
現在使われていない歴史的な旗?武昌起義で10月11日に中華民国湖北軍政府が掲げた十八星旗(鉄血十八星旗、別名・九角十八星旗)。満洲人の支配に対し、漢民族を主体とする内地十八省を象徴する18個の黄色い星に、古代の九州を象徴する九角の黒い星をあしらう。後に五族協和を象徴する五色旗に替えられた

1911年3月から同盟会は譚人鳳を長江一帯に派遣し、計画する「武漢挙事」に呼応すべき各地の決起を宣伝していた。しかし、湖南・湖北における地方革命団体には、同盟会の直接指導は及んでいなかった。軍隊に対する宣伝はキリスト教の伝道を利用した日知会が早くから行い、東京で組織されていた湖北共進会などが活動を引き継いだ。武昌起事の前夜にその地にいた新軍は6大隊の歩兵と、騎兵・砲兵・工兵の各1中隊だったが、軍人によって組織された革命結社「群治社(振武社)」に加入している者が少なくなかったという。

事件の経過[ソースを編集]

10月9日に漢口で同盟会の党人20名が逮捕されて武昌に送られ、10日に武昌でも73名が逮捕され、軍籍の3名が総督公署の前で斬罪に処された。「党員名簿」が官憲の手に入ったという噂もあり、新軍内部は逮捕処分されるおそれのため、非常な動揺が起こった。その夜9時、少数の爆薬をもとにして、工兵中隊が蜂起した。蔡濟民など第29大隊の兵士がそれに応えて合流し、武昌城内に向かった。南湖の騎兵が同じ頃に城外から押し寄せ、蛇山の高所から総督公署に大砲を撃ち込んだ。総督・瑞澂は漢口の租界へ逃げ、第八鎮統制・張彪も軍艦で総督の後を追った。翌日11日の正午には武昌全城が新軍の手に入った。

革命党員は逃げ遅れて武昌にいた第21混成協統・黎元洪を都督とし、全軍を編成し直した。12日に革命軍は漢口・漢陽を占領し、13日に漢口領事団は革命軍を交戦団体と認めて中立を宣言した。16日都督府臨時組織令が発せられ、黎元洪は総司令を兼ねることとなった。18日に革命軍は張彪が指揮する政府軍に攻撃を開始し、漢口大智門駅から攝口に追い、武昌の砲台は政府艦隊を下流に撃退した。

この事件は湖南をはじめとして各省に広がり、なおも清朝を揺るがす。

参考[ソースを編集]

  • 張秀平 毛元佑 黄朴民《影响中国的100次戦争》
  • 北一輝『支那革命外史』1914年
  • 鈴江言一『孫文傳』1930年