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歌仔戯

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歌仔劇
各種表記
繁体字 歌仔戲
簡体字 歌仔戏
拼音 Gēzăixì
注音符号 ㄍㄜ ㄗˇ ㄒ|ˋ
発音: ガーズーシー
台湾語白話字 Koa-á-hì(ゴアヒ)
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歌仔劇(かざいげき)は台湾の伝統芸能で、台湾オペラとも呼ばれる。20世紀初頭、台湾で誕生し大陸福建省ではと称す。

「歌仔」とは北京語では「小歌」と訳出されるように民間歌謡を意味し、その内容は閩南語を主とし、大衆が品格のある言葉、または忠孝を主とする故事を学ぶ機会とし、台湾では古くから社会の重要な娯楽活動の一つとされていた。歌仔劇の祖形は宜蘭地区落地掃であり、車鼓陣等の要素を組み入れて暫時発展した劇である。後代では高甲劇北管劇京劇等の要素を取り入れ戯曲形式が形成されていった。日本統治時代皇民化運動及び国民政府の遷台以降に行われた国語普及運動の中でその活動空間は制限を受けるようになったが、伝統芸人が継承に努力、また台湾の本土化運動の潮流の中で再び発展の機会を獲得している。

歴史

歌仔劇の台湾の宜蘭地区で1900年前後に誕生した。その祖形は福建漳州一帯の「歌仔」であり、7字或いは5字の組み合わせを1句とし、4句で構成される方言使用して歌われる民間歌謡であった[1]。初期の歌仔劇は漳州より宜蘭に移民した漢族により「歌仔」や「車鼓」が伝播し、それらが融合して宜蘭の歌仔が誕生した。歌仔劇の創始者に関しては諸説あり、「歌仔助」欧来助陳高犁猫仔源などの説がある。[2][3][4]。宜蘭歌仔は初期は座って歌われる形式であったものが、後に登場人物が加わり演義や所作が加り、更に各種の服装や登場人物が加わったことで大規模な劇に発展していった。[5]

歌仔劇に演劇形態が完成した後、台湾語による演出が加わり、また曲調に歌謡小調が加わったことで台湾民衆の歓迎を受けるようになった。1925年には福建省廈門地区にも伝播し、福建全域で、1927年にはマレーシアシンガポールフィリピンなどにも伝わり東南アジア華僑社会に広まり、現地の歌仔劇団が組織されるようになった。

太平洋戦争末期、台湾総督府皇民化運動を推進、歌仔劇などの伝統文化を禁止、歌仔劇の役者は和服や日本刀を身に付け日本の軍歌を歌うなど、総督府の宣伝活動に利用された。

1945年日本の敗戦により国民政府が台湾を接収すると、1947年から国語推進運動が展開され、台湾省行政長官公署宣伝委員会による上演劇目の制限が行われた。1950年代から大々的に推進された反共政策では、演劇内容の改善が要求され、「台湾歌仔劇改良会」、「台湾省地方戯劇協進会」、「台湾省改良地方戲劇委員会」が相次いで組織され、その中で多くの劇目が上演禁止となり、忠孝の礼節を重んじた作品や反共と関連する題目として女匪幹延平復國鑑湖女俠などの劇目が上演された。[6]

1971年,台湾省政府は『加強推行国語実施計画』を発表、1973年には中華民国教育部により『国語推行弁法』が公布され国語推進運動が強化されると、台湾語は抑圧され、1976年に公布された『広播電視法』により台湾語番組が制限され、北京語によるテレビ歌仔劇などが制作された。

1980年代以降、台湾の本土化意識の勃興により、歌仔劇の再評価が行われ、歌仔劇団が国家戯劇院を初め、空く地方都市の文化中心センターで上演されるようになった。

閩南歌仔戲(薌劇)

1925年、廈門の梨園戲団の双珠鳳が台湾歌仔劇劇団員を招聘し教授を受けたことで閩南地区での流行が始まった。1926年、台湾の玉蘭班は廈門新世界劇場で連続4ヶ月の公演を行い、1928年には台湾人が福建省漳州白礁慈済宮で祖先への祭祀を行う際,台湾歌仔劇団である三楽軒による上演を行ったことで廈門で大きな反響を呼んだ。その後閩南地区では様々な歌仔劇団が組織されることになる[7]

当時中国大陸で大きな影響を与えた台湾劇団員として戴水宝、温紅塗などがあり、特に温紅塗の影響力は非常に大きかった。

福建の芸人である邵江海林文祥(両名とも温紅塗の弟子。王錦泉、呉泰山、盧培森等と共に学んだ)は歌仔劇の曲調に変化を加え「改良調」を完成、台湾の楽器を排除した改良劇を提唱し、南管(南音)楽器である「三弦」、「洞簫」、「六角弦」をそれぞれ台湾の月琴及び品仔()、殼子弦大廣弦の代わりに使用して国民政府の取締りを逃れようとしている。

中華人民共和国成立後、1953年に歌仔劇は薌劇と、歌仔も錦歌と改称された。[8]1949年。遷台以前は廈門の都馬班による台湾公演が行われていたが、遷台以降は都馬班も台湾にとどまっている。

薌劇は中国の政治運動や文芸政策の影響を受け多くの改革を余儀なくされ、また多くの劇代が上映禁止となり、政治色が強い作品に改編させれ上演された。文化大革命期間中は様板劇の潮流、京劇の強い影響を受けた。改革開放政策が採用されて以降、様板劇の影響は少なくなったと雖も、現在の上演様式と民間の鑑賞意識の間には大きな隔たりがあり、また北京語形式のもの、京劇の影響が見えるものが随所に見られる。そてでも公設の劇団以外に、閩南地区に数百の民間劇団が存在し、学術シンポジウム、テレビ等のメディアを通して台湾の歌仔劇と交流、台湾の歌仔劇研究者である王振義、歌仔劇音楽家の許再添、歌仔劇芸人の呂福祿などが閩南を訪問し、廖瓊枝王蘭花張秀琴呂雪鳳張麗春荘金梅杜玉琴石恵君許亜芬などが閩南で招待公演を実施、歌仔劇劇団(主弦許再添、鼓師王清松)の明華園北京の招待公演を行っている。

閩南歌仔劇は中國での戲曲改革、戲曲近代化の潮流の下、多くの現代版歌仔劇が創出された(現代歌仔劇、時装歌仔劇)。代表作としては1927年8月1日に発生した南昌起義を扱った『八一風暴』(1960年謝晋により映画化)、1964年呉祖強が作曲したバレエ劇『紅色娘子軍』を改編した『瓊花』、二二八事件を描いた『台民涙』がある。

1963年夏、湯印光、陳志亮、呉毅、陳曙、薌人、荘明の6名は6人『榜山風格』の編劇を開始、1965年初に『碧水賛』の劇本が完成し、竜渓専区薌劇劇団が初演、1965年春には華東地区の戲曲現代戲観摩会で上演、1965年4月には台本が上海文化出版社より出版された。

廈門市では既に「歌仔劇」の名称が復活して久しく、「廈門市歌仔劇劇団」及び「漳州市薌劇団」は閩南地区を代表する二大歌仔劇劇団となり国家劇団に指定されている。

中国の国家1級演員鄭秀琴(邵江海と林文祥の学生、元漳州市薌劇団団長)は数度にわたり台湾公演を行い、この劇団の主弦・鄭解放、楊森林もまた台湾での上演を行っている。また同じく国家1級演員作曲員の陳彬 (歌仔劇)も台湾でかつて作曲を行い『李娃伝』(柯銘峰主弦,鄭松江司鼓)、『長生殿』(楊森林主弦,王清松司鼓)等を発表している。その廈門市歌仔劇劇団は2006年に初めて台湾ツアーを実施、現代歌仔劇である『邵江海』や、新編古装歌仔劇である『竇娥冤』などの上演している。

専門家教育では1998年北京中国戲曲学院表演(演出)学科と廈門戲曲舞踏学院(廈門芸術学校)が協力し歌仔劇専門コースを開設、18名の卒業生を輩出している。2006年5月20日には漳州と廈門の歌仔劇は「国家級非物質文化遺産」(登録番号Ⅳ—64)の指定を受け、2008年1月26日には『第2次国家級非物質文化遺産項目代表性傳承人名簿』に漳州の鄭秀琴吳茲明、廈門の紀招治陳志明 (歌仔劇)が認定されている。

上演形態

落地掃時期

宜蘭地区早期の歌仔劇は落地掃本地歌仔)地と称された。これは簡単な歌と劇によるものであり、出演者は全員が男性、即席を主とし、主に廟会などにあわせて上演されていた。現在でも陳旺欉のように宜蘭地区には落地掃の形式を伝承している芸人が残っている。

屋外舞台の歌仔劇

台湾の廟会ではしばしば屋外舞台の歌仔劇を目にすることが出来る。

歌仔劇は四平劇客家採茶劇高甲劇乱弾劇の上演様式を取り入れ、またその振り付けや衣装などを模倣して次第にその上演形式を完成させていった(老歌仔)。台湾での廟会では当初は官話系統の北管劇で酬神を演出したが、後に歌仔劇が酬神劇目を上演するようになり、台湾民主に広く受け入れられた。酬神劇は扮仙劇と正劇に分けることができ、初期には扮仙劇は北管官話の演出であったが、近年は台湾語で上演するようになってきている。正劇は日劇と夜劇があり、初期は日劇は乱弾劇、夜劇は歌仔劇の形式が採用されていた。

屋外舞台の歌仔劇と屋内舞台の歌仔劇が中心であった時代、歌仔劇の演出は「幕表劇」の上演方式が採用されていた。これは弁士が劇目内容を説明しながら舞台で上演されるものであり、上演者同士の呼吸をあわせることが重要であった。この上演方式では上演者の台詞が重視されており、台本は口伝された台詞を筆記した口述台本であった。

屋内舞台の歌仔劇

日本統治時代、屋外舞台での歌仔劇は台湾民衆の支持を受け、中国から多くの劇団が台湾を訪れ上演するようになった。歌仔劇は福州の布景、連本劇形式の影響を受け、また京劇の武打、身段と鑼鼓点などを取り入れたことで非常に精彩な内容に変化した。当時の台湾では京劇は外江劇と称され、1910年代に台湾で流行したが、1920年代になるとその人気に翳りが出るようになり、台湾にやってきた京劇劇団は劇団を解散し、劇団員が歌仔劇劇団に参加したことで武打の要素が入ることとなった。

多くの劇場では歌仔劇の上演を行うようになり、観客は入場券を購入する形式が誕生した。また劇場は上演者による街中での宣伝活動を行うようになった。この時期、歌仔劇劇団は劇場で数ヶ月にわたる公演を行い、また舞台装置による演出も高度化し噴水が使用されることもあった。1915年頃、辜顕栄は日本人が経営していた淡水劇場を買収、新舞台と改称し多くの歌仔劇劇団を招待し上演した。

皇民化運動が推進されると、歌仔劇の衣装は和服に改められ、日本語による上演を迫られた時期もあったが、戦後には再び屋内舞台の歌仔劇は再び隆盛を迎え、1950年代には台湾全土で300を超える歌仔劇劇団が舞台で活躍していた。その後テレビ放送の開始により庶民の娯楽が変化、屋内舞台による歌仔劇は衰退していくことになる。

ラジオ歌仔劇

1954年頃、台湾の民本、中興、正声、民声、国声及び華声などのラジオ放送で歌仔劇が放送されるようになった。当初は舞台の歌仔劇を録音放送していたが、やがて各放送局が自身の歌仔劇劇団を設立するようになり、1960年代に最盛期を迎えた。ラジオ歌仔劇では聴覚に依拠しているため音楽面の発展があり、中広調、豊原調などの音楽が誕生した。当時最も人気のあった歌仔劇劇団としては正声による「天馬歌仔劇」があげられる。

映画歌仔劇

1955年都馬班は台湾で最初の歌仔劇映画である『六才子 西廂記』を制作した。この作品の興行成績は芳しくなかったが、拱楽社陳澄三華興電影製片公司を立上げ、1956年に『薛平貴与王宝釧』(主演:劉梅英呉碧玉など)が上映されると、それ以降映画歌仔劇が次々に発表され、長編舞台歌仔劇の内容を凝縮し、2時間から3時間でまとめたことで多くの慣習の支持を受けた。

テレビ歌仔劇

現在の台湾で最も目にする機会が多いのがテレビ歌仔劇である。1962年台湾電視台が開局されると、歌仔劇はテレビのスクリーンに登場することとなった。最初に放送されたのは金鳳凰歌劇団による『楊麗花』であった。

テレビ歌仔劇は芸術面から見ると象徴主義から写実主義への転換であると言える。例えば馬が登場するシーンでは小道具の馬ではなく実際の馬が使用され、身段表現が消失、そのほかにも唱腔も使用されなくなった。また台湾語番組の放送時間が30分程度と限定されており、オープニングとエンディング、そして広告を除くと僅か21分となり、歌謡部分を表現するとその途中で広告となるなどがあり、歌謡表現が著しく減退し、連続時代劇のような作風になっている。当時のテレビ3局はそれぞれ歌仔劇番組を放送中視黄香蓮華視葉青台視楊麗花)しており、視聴率獲得競争が激化した。

1973年に国語推進運動が展開されると布袋劇と共に歌仔劇も一定期間放送されなくなった。

舞台歌仔劇

服裝

脚注

外部リンク