樋野 含斎(日野 含斎[1]、ひの がんさい[2]、生年不明 - 1865年9月27日(慶応元年8月8日)[2])は、江戸時代後期の出雲広瀬藩の儒者。名は弘、仲毅[2]。字は子毅[2]。俗名は多門[1]。号は林泉山人[1]。
儒者・海野紫瀾、篠崎小竹に学ぶ[2]。安政3年、伯耆国(現・鳥取県)の淀江に来る[1]。後に米子の寺院に寓し多数の門下生を薫陶する[1]。郷校をひらく[2]。漢学に造詣が深く、能書の誉がある[1]。米子の実業家初代坂口平兵衛は樋野の門に入り、漢学を修めている。
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