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梁冀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
梁冀
後漢
大将軍
出生 生年不詳
一説に章和2年(88年
涼州安定郡烏枝県
死去 延熹2年8月10日159年9月9日
司隸河南尹雒陽県
拼音 Liáng Jì
伯卓
別名 跋扈将軍(蔑称)
主君 順帝沖帝質帝桓帝
氏族 安定梁氏
親族については梁冀#親族の項を参照
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梁 冀(りょう き、章和2年(88年)? - 延熹2年8月10日159年9月9日[1])は、後漢政治家伯卓涼州安定郡烏枝県(現在の甘粛省平涼市涇川県[1][2])の人。外戚として権勢を振るい、質帝より「跋扈将軍」(「跋扈」という熟語の語源[3])と揶揄されたが、その質帝を弑して尚も擅横を極めたため、やがて桓帝に誅された。

略伝

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後漢書』によれば、彼は生来から鳶肩豺目(鳶肩・鋭いのような目)の容貌を持ち、少々の文書と計算に長じていたが、吃音で学問に疎く、あまつさえ周りを威圧し傲慢な態度を示した。また若いころから皇室の外戚として、酒を好み、挽満・弾棋格五六博蹴鞠・意銭などの遊戯に巧みだった。さらに、また臂鷹(鷹狩り)・競犬競馬闘鶏などを好むなど、様々な遊びに精通していたと記録されている。

陽嘉元年(132年)、妹の梁妠順帝の皇后となると襄邑侯に封ぜられたが、父の梁商中国語版左雄の諫言もありこれを固辞した。初め黄門侍郎になり、侍中虎賁中郎将越騎校尉中国語版歩兵校尉執金吾と累進して河南尹に至った。永和6年(141年)、梁商が死ぬと梁冀は父の大将軍の位を継いだ。

順帝が崩殂し、2歳の劉炳(沖帝)が践祚すると、梁妠が太后として摂政することになったが、沖帝は翌年に頓死した。太尉李固は幼帝だと外戚が権勢を振るうのを恐れ、皇帝には年長の者を即位させるよう主張したが、鯔のつまり梁冀らは8歳の劉纘(質帝)を即位させる。このとき政権は完全に梁冀らが壟断しており、質帝は梁冀に「これは跋扈将軍なり」と揶揄した。梁冀はこれに憤激、質帝を毒によって弑逆し、質帝の後継者について清河王劉蒜を擁立しようとした李固を退けて、強引に劉志(桓帝)を即位させた。また、李固を解任した後に殺害し、世間を失望させた。

桓帝の時代になると、梁妠の妹梁女瑩がその皇后に立てられ、「剣履上殿」「入朝不趨」「謁賛不名」など前漢の功臣蕭何に匹敵するほどの格別な待遇を受けるに至った。その一方で梁冀の擅横は弥増し、延いては妻の孫寿の一族まで権勢を振るい、梁冀が豪邸を建てると妻の孫寿もそれに劣らない豪邸を建てて張り合う有り様であったとされる。

和平元年(150年)、梁妠は政権を19歳になった桓帝に返上するよう遺言して崩御したが、梁冀の権勢は衰えずその擅横は続いた。しかし、皇后となった梁女瑩も延熹2年(159年)に崩御し、梁氏の勢力が宮中で弱まったのを契機として、桓帝は単超ら5人の宦官と謀って梁冀派の宦官張惲を逮捕、兵を動員して梁冀の邸宅を包囲した。斯くして自身の最期を悟った梁冀は、妻子らと共に自害し果てた。

没収された梁冀の財産は国家の租税の半分ほどあり、梁冀に連座して死刑になった高官は数十人、免職になった者は300人余りになり、朝廷には一時空の状態がもたらされたという。

親族

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脚注

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