板坂宗商

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板坂 宗商(いたさか そうしょう、生歿年不詳)は、室町時代後期の医師足利義輝の侍医。のち武田信玄の侍医。通称は板坂法印

来歴[編集]

室町幕府へ[編集]

医を以て室町幕府に仕え、足利義輝の侍医の一人となる。南禅寺東禅院に住して子弟に本草綱目(薬草学)を講ずる。足利義輝が横死した後、武田信玄に招聘せられ、甲斐国(現・山梨県)で信玄の侍医となり、還俗して「板坂法印」と称する。

甲斐へ[編集]

武田信玄は、板坂法印の侍医を喜び、法印の実子・板坂卜斎も東禅院から呼び寄せ、禄を与えて武田家薬師と定め還俗させた。武田信玄が信濃国駒場(現・長野県下伊那郡阿智村)で病死する直前まで脈を取って診察しており[1][2][3]、信玄の死後、武田勝頼に仕えるが天正10年武田氏滅亡の後、父子ともに加藤清正に仕えた。

肥後へ[編集]

文禄朝鮮出兵の時、加藤清正は異国での死を覚悟して3人の娘の養育を、板坂法印に依頼しその見返りに恩賞を清正が問うが恩賞を辞退。けれど遂に固辞しえず、朝鮮にある医学書・漢籍文献を所望した[4]。子の板坂宗高(卜斎)は、まもなく辞して徳川家康に仕え、『板坂卜斎覚書』『慶長年中卜斎記』などを著した。孫の板坂友閑は、医を以て豊前小倉藩の第2代藩主・小笠原忠雄に仕えた。

系譜[編集]

室町幕府の典医をつとめた板坂三位の子孫の家柄。

  • 高祖父:板坂宗頓
  • 曾祖父:板坂宗徳(三位)
  • 祖父:板坂惟順
  • 父:板坂継順
  • 本人:板坂宗商(法印)

補注[編集]

  1. ^ 『武田信玄の死因とその周辺考』久萬田泰昌著、日本医事新報、第3375号
  2. ^ 「4月11日、未の刻より、信玄公、御気相悪御座候而、御脉殊之外はやく候。又12日の夜、亥之刻に、口中にはくさ出來、御は五ツ六ツ抜け(歯が5、6本抜けて)、それより次第に弱り給ふ。既に死脉うち申候につき、信玄公御分別有之。各譜代の侍大将衆、一家にも人数を持給ふ人々、悉く被召寄につき、信玄公被仰は、6年先、駿河出陣まへ、板坂法印申候は、「膈(かく)と云煩(わずらい)なりといひつる」とあり。『信玄公逝去付御遺言之事』
  3. ^ 『武田信玄 その死因と卒去地を探る』高野賢彦著
  4. ^ 「吾国に朝鮮本の書籍、多く残欠して遺るゆゑんは、壬辰の役に加藤清正、大船三艘に積て肥後州へ伝致せる因て也。其故は甲州武田晴信の医師に、板坂法印といふあり。晴信死し、勝頼敗亡の後板坂氏、清正に奉仕し籠幸を得て、禄千石を食て肥後にありけり。朝鮮の役、方(まさ)に起るに及て、清正、板坂に語て曰。「某(それがし)三軍の司命と成て海外に赴く。生て本国に還る事あるべからず。異域の鬼と成べし。生前に於て一の遺念あり。女子三輩ありて皆幼稚なり。そのおひ立のいかならん事を不知(しらず)は、是のみ不便あり。此三女子を以て其方へ委ね置なり。只疾病の為のみならず、死生に預るの大事ありとも、我子と存じ養育すべし」と、かたく申残せり。さて又云。「三女子の死生を以て、其方へ委ね置事、莫大の恩と思ふ也。然れば何にて所望の事は可相叶也、可申聞」となり、板坂いふは「何の恩賞をか望可申候や。雖然命の辱を徒にすべきに非ず。某(それがし)聞く、朝鮮は文籍の国なりと。吾国、久敷(ひさしく)戦闘の地となりて、文書散乱し、学者・書に乏し。朝鮮にて書籍を獲られなば、某へ賜るべしや」と答ふ。清正許諾せり。然るに晋州の城は、国の東南にて、西北の寇害を避て、嘗て文籍の類は、皆、此城中に納ぬ。吾兵、先づ晋州を陥れて城に火を発しぬ。時に庫倉の多くあるを見て清正、怪之(これをあやしみ)、士卒をして破りみせしめぬれば文庫なり。清正、衆を戒て焚掠を止めしめ、車数十輌に載て海に至らしめ、終に肥後州へ逓致して板坂氏に授けぬ。是故、其書脱落多し。(板坂)法印死し、其子も清正父子へ奉仕す。然に其子罪を得て、家財を没入せらる。孫ありて(板坂)友閑と称し、小笠原遠江守に仕て、法印が血脈を伝ふ。此(板坂)友閑、書籍若干を納置ぬ。其余歿入の書は、肥後侯二代にて国除かれし時、唐本屋清兵衛が祖父・玉芝といへるもの、肥後へ赴き不残(のこらず)買取て、京師(みやこ)及、東都(えど)へ携來り。頗る諸家の文庫に入ぬ」『吾国に朝鮮本残欠の伝る所以』(木下順庵の話 白石伝)
  5. ^ 『断家譜』巻2、今井氏

参考文献[編集]