松根光広
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正17年(1589年) |
死没 | 寛文12年(1672年) |
別名 | 行広、備前守 |
主君 | 最上義光→家親 |
藩 | 出羽国山形藩 |
氏族 | 長瀞氏→白岩氏→松根氏 |
父母 | 父:長瀞義保、養父:白岩広教 |
子 | 守広 |
松根 光広(まつね あきひろ/みつひろ)は、江戸時代前期の山形藩重臣。最上氏の庶家。最上義守の三男・長瀞義保の子で最上義光の甥。
生涯
[編集]天正19年(1591年)に父が戦死すると、白岩備前守広教の養子になり、白岩城主になる。慶長18年(1613年)ごろ、熊野夫須美神社に対して伯父義光の病気平癒を祈願している。
1615年(元和元年)、松根城を築き10000石の領主となる。また白岩城を与えられ、12000石の領主となった。
白岩、松根はともに六十里越街道の要所で、光広はこの街道を抑えた。義光の代には目立った活躍はしていないが、2代藩主家親の代から活躍する。家親の死に際して、叔父楯岡光直の謀殺だと主張し、光直や鮭延秀綱と対立。
幕府は光直を呼び出して査問するが証拠がつかめず、光広は筑後国柳河藩の立花宗茂の下に配流された。
立花家で50年あまりを過ごし、寛文12年(1672年)に死去した。子孫は伊予宇和島藩伊達家に家老として仕えた。
参考文献
[編集]- 安西友則『山形戦国期』
- 片桐繁雄『北天の巨星最上義光』
- 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 上巻』、1994年
- 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001年