李鼎新

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李鼎新
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1861年咸豊11年)
死去: 1930年民国19年)
中華民国の旗 中華民国上海市
出身地: 福建省福州府侯官県
職業: 海軍軍人
各種表記
繁体字 李鼎新
簡体字 李鼎新
拼音 Lǐ Dĭngxīn
ラテン字 Li Ting-hsin
和名表記: り ていしん
発音転記: リー ディンシン
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李 鼎新(り ていしん)は清末民初の海軍軍人。(現在の福州市)の人。北京政府では直隷派に属した。承梅

事績[編集]

清末の活動[編集]

1881年光緒7年)、馬尾船政局後学堂第4期駕駛(操舵)班を卒業した。同年、イギリスに留学し、グリーンウィッチ海軍学校で引き続き操舵を学ぶ。また、北海西インド諸島で実習を重ねている。5年後に帰国して北洋海軍右翼中営遊撃に任命された。1889年光緒15年)、艦艇「定遠」の署理副管駕に昇進する。3年後、正式に副管駕となった。

日清戦争勃発後、黄海海戦に参戦した際、海軍提督丁汝昌が戦闘中負傷してしまう。そのため、「定遠」管駕劉歩蟾と副管駕李鼎新が、代わりに督戦した。翌年、北洋艦隊が覆滅、清軍が大敗すると、李鼎新は海軍改革の必要性を朝廷に建議した。その後、他の海軍軍官たちとともに一時罷免されてしまう。

1901年(光緒27年)11月、袁世凱直隷総督兼北洋大臣に就任すると、李鼎新は再任用された。以後、艦艇「海圻」管帯、山海関艦隊副司令を歴任している。1911年宣統3年)春、海軍部が成立すると、李は海軍正参領の地位を授与され、署理軍法司司長に任じられた。

北京政府での活動[編集]

中華民国成立後も、そのまま李鼎新は北京政府の海軍部に留まり、参事から海軍参謀長に昇進した。1912年民国元年)10月、海軍少将の地位を授与された。12月、海軍総司令に昇進し、海軍中将の地位を授与されて、上海に駐留している。翌年、二次革命(第二革命)が勃発すると、袁世凱の命により、上海で蜂起した陳其美の軍を撃破した。この軍功により、8月、海軍上将銜を授与された。

1915年(民国4年)12月上旬、李鼎新に属する艦艇「肇和」が、反袁世凱のために蜂起を計画した。この情報を察知した李鼎新は、これを鎮圧することに成功するが、李はこの事件で袁の不興を買ってしまう。同月、袁が皇帝に即位したにもかかわらず、李は他の海軍軍人たちと異なり、まったく爵位にあずかることはなかった。

これにより、李鼎新は袁世凱に恨みを抱くこととなる。また、海軍軍人の多くも袁に反感を持っていた。そのため護国戦争勃発後は、李は上海の海軍を率いて護国軍に協力している。袁の死後、李は北京政府に戻ろうとする。その頃、国務総理段祺瑞臨時約法を無視し、国会の復活を阻止しようとしていた。李は再び独立をほのめかすことで、段の意図を挫くことに成功している。

海軍総長に昇進[編集]

1921年(民国10年)5月、靳雲鵬内閣において、李鼎新は海軍総長に任命された。李は、北京政府内の派閥争いで直隷派の一員となっている。

翌年、福建省安徽派徐樹錚の謀略により、直隷派の福建督軍李厚基が兵変で拘束されてしまう事件が起きる。そのため李鼎新は、上海の艦隊を駆使するなどして、福建省を直隷派地盤として防衛しようとする。しかし結局、李厚基は南方政府の許崇智に敗れ、福建を追われた。1924年(民国13年)10月、第2次奉直戦争で直隷派が敗北すると、李は海軍総長の地位を追われる。以後、政界・軍界から完全に引退した。

1930年(民国19年)、上海で病没。享年70。

参考文献[編集]

  • 陳孝華「李鼎新」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第9巻』中華書局、1997年。ISBN 7-101-01504-2 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
薩鎮氷
海軍総長
1921年5月 - 1924年10月
次代
杜錫珪