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未生斎広甫

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未生斎 広甫(みしょうさい こうほ、寛政3年(1791年) - 文久元年(1861年)7月)は、日本華道家未生流二代目当主。本名上田広甫

経歴

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寛政3年(1791年)に但馬国土居村(現:兵庫県香住町(旧:城崎郡))で生まれる。生家は、城崎の庄屋上田家である。当時は奉公人であった。幼名は、上田安太郎(やすたろう)[1]父親は、同じく庄屋として栄華を誇った上田九左衛門兼重息子上田九助

文化2年(1805年)に、後に共同で未生流を開く事となる未生斎一甫が上田家を訪れる[2]。そこで一甫は広甫の芸道を見出し、摂津国大阪に連れて行く事を決意した。大阪に着き、未生斎広甫は未生斎一甫と未生流を開き、自ら不濁斎広甫と名乗るようになる。

未生流二代目当主を引き継いた後、文政12年(1829年)に嵯峨離宮(現:大覚寺)の華道を職とする花務職に任命される。また、僧位法橋法眼を賜っている。そこで「華道嵯峨御流」の普及を懇願され、積極的に普及に取り組み、「嵯峨御流」は全国的に知られる事となった。

文久元年(1861年)7月、大阪で没した。墓所は成正寺

著作

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  • 『四方の薫里』
  • 『花術三才噺』 - 天保6年(1835年)刊行。西洋天文学と花道思想の融合を目指した書[3]

関連項目

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外部リンク

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脚注

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  1. ^ 城崎の歴史書『国府村誌』には、広甫の幼名は上田安蔵と記述がある。
  2. ^ 未生斎一甫とは血縁関係に当たり、遠戚に当たる。
  3. ^ 井上治「近世花道思想における西洋天文学の影響」『洋学』 18号( 2010年)