木下寿徳

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木下 寿徳(きのした じゅとく、1855年安政2年〉5月19日 - 1927年昭和2年〉春)は、日本剣術家守一警視庁撃剣世話掛東京帝国大学剣道部師範を務めた。大日本武徳会に参加しなかったため、範士教士などの称号を持たない。

経歴[編集]

幕臣・木下守綱の次男として生まれる。木下家は代々御番医師を務め、木下道圓と名乗った。木下家は徳川家駿河移封に随伴し、寿徳は岡家を継ぎ、静岡藩士となった。

1869年明治2年)、開墾方頭・中條金之助(景昭)に率いられ牧之原に入植。荒れ地を開墾して茶園を栽培する傍ら、中條に剣術を学んだ。1872年(明治5年)、牧之原を離れ、東京道場を転々としながら修業を重ねる。その後、千葉県御用掛に就任。

1883年(明治16年)11月4日、向ヶ岡弥生社撃剣大会に出場。1884年(明治17年)11月8日、向ヶ岡弥生社撃剣大会に出場し、会田定次郎(警視庁)に勝ち、高山峰三郎滋賀県警察部)に敗れた。1885年(明治18年)7月7日、伊藤博文邸で開催された天覧試合に出場し、麻生彦一(警視庁)に勝った。

明治20年代、警視庁撃剣世話掛に就任。後に沖縄県に赴任する。1907年(明治40年)3月、東京帝国大学剣道部師範に就任。警視庁時代に片眼を失明していたため、主に理論で指導した。東京大学の剣道部で今も受け継がれている題字「遊於道」は、寿徳の揮毫である。

著書[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]