月旦評

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月旦評(げったんひょう)は、後漢許劭が開いた人物評論の故事にちなむ用語。転じて、一般に、品定めを行うことや、人物評をすることを、月旦評と言い表すようになった[1]

後漢書』の本伝によれば、許劭は、従兄の許靖らとともに、毎月1日に郷里の人物の批評を行い、それを「月旦評」と呼んでいた。『太平御覧』によれば、その影響力は強く、月旦評で称賛された者は出世するが、芳しくなかった場合は没落したという。

その影響は、当時の有力者であった袁紹曹操ですら、大いに気にかける程のものだった。許劭の曹操に対する論評は、「治世之能臣 亂世之奸雄」(『三国志』注)[2]、あるいは「清平之姦賊 亂世之英雄」(『後漢書』)というものであった。

脚注[編集]

出典

  1. ^ 劉宋の范曄、西晋の司馬彪、唐の章懐太子李賢注,『後漢書・巻六十八・許劭傳』:「初,劭與靖郷有高名,好共覈論倶黨人物,毎月輒更其品題,故汝南俗有'月旦評'焉。」
  2. ^ 裴松之注引孫盛の『異同雜語』:「嘗問許子将:『我何如人?』子将不答。固問之,子将曰:『子治世之能臣,亂世之奸雄。』太祖大笑。」

関連項目[編集]