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旭堂南鱗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

旭堂 南鱗(きょくどう なんりん)は、上方講談名跡。幕末からある名前で初代は旭堂南麟と表記し旭堂の開祖。当代は特に代数は振っていない。

  • 初代旭堂南麟 - (1804年 - 1878年8月13日)本名、朝比奈安兵衛。旭堂派の開祖、2代目田辺南鶴の門下。元は旗本であった。息子も講釈師で旭堂明麟といったが、慶應二年、他人の妻と不義を働いて夫に討たれた。その知らせが届いた時南麟は口演中であったが、自若として続きを講じ、そのあとでこの悲劇を打ち明けたのでみな驚いたという。のち大南麟(おおなんりん)と自称した[1]

旭堂きょくどう 南鱗なんりん
旭堂(きょくどう) 南鱗(なんりん)
「覗き梅鉢」は旭堂一門の定紋である。
本名 今西 久幸
生年月日 (1950-08-01) 1950年8月1日(74歳)
出身地 日本の旗 日本大阪府大阪市阿倍野区
師匠 3代目旭堂南陵
弟子 旭堂花鱗
旭堂風鱗(水谷ミミ)
旭堂鱗林
名跡 1.旭堂南幸(1976年)
2.旭堂南光(1976年 - 1988年)
3.2代目旭堂南鱗(1988年 - )
活動期間 1976年 -
所属 なみはや講談協会
受賞歴
藍綬褒章(2022年11月)
備考
なみはや講談協会会長(初代)(2018年 - 2023年 )
なみはや講談協会名誉会長(2023年 - )

旭堂 南鱗(きょくどう なんりん 1950年8月1日 - )大阪市阿倍野区出身の講談師。本名、今西 久幸。

サラリーマンをしながら3代目旭堂南陵の講談教室に通う。1976年4月に3代目旭堂南陵に入門し南幸と名乗る。その後まもなく南光と改名。1988年に真打昇進し南鱗を襲名。2018年、なみはや講談協会会長。2023年、旭堂南華に会長職を譲り名誉会長となる。

2022年11月、篤志面接委員としての功績を認められ、藍綬褒章受章[2]

弟子

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ソフト

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  • 上方講談シリーズ 1 旭堂南鱗 (2019年、レベル)-「お坊主稲川」「善悪二筋道」収録

注釈

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出典

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  1. ^ 関根黙庵『講談落語今昔譚』平凡社東洋文庫、p99
  2. ^ “秋の褒章、府内35人”. 朝日新聞 大阪地方版 (大阪): p. 21. (2022年11月2日) 
  3. ^ 現・ふじかわ陽子(コンテンツライター)、「寄席つむぎ」主宰
  4. ^ ふじかわ陽子 (2019年9月14日). “旭堂花鱗から最後のご挨拶”. note. 2019年9月12日閲覧。[リンク切れ]

外部リンク

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