斛斯政

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斛斯 政(こくし せい、生年不詳 - 614年)は、中国軍人斛斯椿の孫にあたる。本貫広牧郡富昌県。

経歴[編集]

新蔡郡公の斛斯恢の子として生まれた。はじめ親衛となり、後に軍功により儀同の位を受け、楊素に取り立てられた。

大業年間、尚書兵曹郎となり、兵部尚書の段文振を補佐した。煬帝に気に入られ、楊玄感兄弟とも交友を持った。段文振の死後、兵部侍郎となった。大業9年(613年)、煬帝第二次高句麗遠征のときに楊玄感が反乱を起こすと、斛斯政は楊玄感と誼を通じていたため、追及を恐れて高句麗に亡命した。

大業10年(614年)、煬帝が第三次高句麗遠征の軍を起こし、高句麗が講和を求めると、条件として斛斯政の身柄が隋本国に移送された。斛斯政は金光門の柱に縛りつけられ、公卿や官僚たちの手によって射殺された。

斛斯政の遺体は、煬帝の命によって釜茹でにされて、食肉として切り刻まれて宴会で諸侯・百官に差し出された[1]

脚注[編集]

  1. ^ 桑原隲蔵「支那人間に於ける食人肉の風習」『東洋学報』第14巻第1号、1924年。 『支那人間に於ける食人肉の風習』 - 青空文庫

伝記資料[編集]