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播磨幸太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
播磨 幸太郎
名前
愛称 ハリコウ
カタカナ ハリマ コウタロウ
ラテン文字 HARIMA Kotaro
基本情報
生年月日 1915年
大日本帝国の旗 大日本帝国, 兵庫県神戸市
没年月日 1953年7月19日(満38歳没)
日本の旗 日本, 兵庫県神戸市
選手情報
ポジション FW
ユース
19xx-1933 兵庫県立第一神戸中学校
1933-1938 慶應義塾大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1936-1939 慶應BRB
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

播磨 幸太郎(はりま こうたろう、1915年 - 1953年7月19日)は、日本サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード兵庫県神戸市出身。

来歴

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兵庫県御影師範学校附属小学校を経て、兵庫県立第一神戸中学校(神戸一中、現:兵庫県立神戸高等学校)に入学し、サッカー部に所属。右近徳太郎が2年先輩に、直木和津田幸男および二宮洋一が1年後輩に当たる[1]。1933年1月に開催された第15回全国中等学校蹴球選手権大会での優勝に貢献した。

1933年に神戸一中を卒業して、慶應義塾大学予科に入学。慶應入学後よりソッカー部に所属して予科1年次よりレギュラー選手となった。また、在学中には慶應BRBで1度(1936年)、慶應義塾大学として1度(1937年)の計2回全日本選手権(現在の天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝した。また、慶應義塾大学法学部卒業後の1939年6月の全日本蹴球選手権大會(第19回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で慶應BRBのメンバーとして優勝した。

在学中の1938年3月に全関東のメンバーに選出されて、4月7日のイズリントン・コリンシャンズイングランド)戦に出場した[2][3]

1939年3月に日本代表候補に選出された[4] が、1939年9月の日満華交歓競技大会の代表からは漏れた。

現役引退後は日本代表のコーチや日本蹴球協会、関西蹴球協会の理事を歴任[5]。1946年に兵庫県サッカー協会の常務理事に就任した[6]

1953年7月19日午後3時、肝臓癌により死去した[5]

脚注

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  1. ^ ユーハイム体育・スポーツ振興会『神戸一中蹴球史』2011年3月。 NCID BB05662830 
  2. ^ 日本代表 試合別出場記録[リンク切れ]
  3. ^ 「英蹴球団を迎える 全関東軍の陣容成る」 朝日新聞、1938年4月3日、2016年3月10日閲覧
  4. ^ 「今年度蹴球代表」 読売新聞、1939年3月4日、2016年3月10日閲覧
  5. ^ a b 「播磨幸太郎氏死去」 朝日新聞、1953年7月21日、2016年3月10日閲覧
  6. ^ 『兵庫サッカーの歩み―兵庫県サッカー協会70年史』兵庫県サッカー協会、1997年12月。ISBN 4303990205 

関連項目

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外部リンク

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