戸次親家

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戸次親家
時代 戦国時代
生誕 文明10年(1478年
死没 大永6年(1526年
改名 幼名:孫次郎
官位 常陸介
氏族 戸次氏
父母 父:戸次親宣
兄弟 親家、女(由布惟克室)、戸次親久[1]、戸次親永[2]、戸次親範(遠江守)、戸次親兼
正光院(由布惟常の娘)
養孝院(臼杵長景の娘)
女(清田鑑綱室)、女(一万田親泰室)、女(安東家忠室)、某(早世)、鑑連 (道雪)、女(立花鑑高室)、女(戸次親方正室)、女(利光鑑教正室)、女(戸次親繁室)、鑑方親行親行正室
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戸次 親家(べっき ちかいえ)は、戦国時代武将豊後国戦国大名大友氏の家臣。大友氏の支流・戸次氏の当主。官位は常陸介。豊後国鎧ケ岳城主。

父は戸次親宣、妻は由布惟常の女・正光院、継室は臼杵長景の女・養孝院。

子に清田鑑綱室、一万田親泰[3]安東家忠室、戸次鑑連(立花道雪)、立花鑑高[4]室、戸次親方[5]正室、利光鑑教正室、戸次親繁[6]

ほか戸次鑑方[8]戸次親行[9]や娘[10]がいたが、いずれ親家の実子ではない、彼の継室・養孝院が戸次一族興盛のため、他家より引き連れの子と考えられる[要出典]

伯父に戸次親続[11]、叔父に戸次親延[12]戸次親就[13]

略歴[編集]

大友氏庶流の戸次親宣の子として生まれた。大友氏の一門であったが、家運は大きく衰えており、本貫地の戸次庄も失って没落していた。親家の代でもその衰運を覆すことはできなかった。また、親家自身病弱で臥せがちだったため、出仕すらままならない状態も多かったという[要出典]

1526年、大内氏佐野親基問田重安豊前国に侵入させ、豊前国の要衝馬ヶ岳城を占拠した際には、病に臥せっていたため、嫡男の戸次鑑連を出陣させた。鑑連は若年でありながらも奮戦し、勲功を挙げた。息子の成長に安堵した親家は、同年に死去。家督は鑑連が継いだ。

脚注[編集]

  1. ^ 片賀瀬戸次氏第二代当主、新太郎、伊予守、加賀守宗心(伯父の片賀瀬戸次氏初代当主戸次親続の養子)、道雪の叔父として休松の戦いに戦死。子に戸次親方、戸次三郎右衛門鑑員(直員)、戸次鑑直。
  2. ^ 近江守親俊とも。子に戸次兵部少輔鑑比(道雪の従弟として休松の戦いに戦死)。
  3. ^ 『北九州市史』によると、高橋鑑種の母は道雪の姉、すなわち鑑種の父・一万田親泰室。
  4. ^ 立花若狹守。筑前西大友・立花氏の庶流。子に立花(戸次、山本)勘右衛門鎮行。
  5. ^ 片賀瀬戸次氏第三代当主、鶴千代丸、山城守親善、左近紹草、紹花一如(一説に立花鑑載の嗣子・親善と同一人物とも)。子に戸次山城守鎮秀宗傑、戸次鎮保。
  6. ^ 臼杵鑑速養女。
  7. ^ 高本紫溟 編『国立国会図書館デジタルコレクション 立花遺香』国史研究会〈日本偉人言行資料〉、1916年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953324/94 国立国会図書館デジタルコレクション 
  8. ^ 『立花遺香』によると、実は田原親賢の弟であるとされる。戸次中務の母が懐妊した時、正光院(由布惟常の娘、道雪の生母)が女子ならば母と共に暮らすようにと命じたが、果たして女子が生まれた。ちょうど同じ頃に紹忍の親の妻も男子を出産したが、民間信仰で「嫌年の子」とされる不吉な時期に生まれたので養子出す必要があり、交換したのだという。
    話の出所は、紹運の家臣・有馬伊賀(立花宗茂初陣の後見役)の姉で紹忍の妻いそと、宗茂の生母・宋雲院との会話であるが、正光院は道雪を産出した翌年の1514年に病歿したので、原文でも「しかと承り得ず」として人物は不明とする。養孝院(臼杵長景の娘、道雪の継母)の間違いかもしれない。紹忍の親の妻が、実父奈多鑑基の室なのか、養父田原親資の室なのかは言及されていない[7]
  9. ^ 戸次親行も恐らく、養孝院が他家より引き連れ、養女と結婚した婿養子であるが、1565年、18歳の若さで病死した。夫の戸次親家は既に1526年に病歿したので、1547年生まれの親行は親家の実子ではありえない[要出典]
  10. ^ 戸次親行正室。
  11. ^ 片賀瀬戸次氏初代当主、新六郎、新三郎、丹後守、山城守。養嗣子に戸次親久、子に戸次長門守親俊。肥後、日向36国士の旗頭。
  12. ^ 藤北戸次氏初代当主、五郎、右馬助、治部大輔親正、藤北松尾城主。子に戸次親繁戸次親宗(二人とも道雪の従叔父として休松の戦いに戦死)ともに弟・親就の養子。
  13. ^ 孫十郎、刑部少輔、但馬守、駒木根右近。

関連項目[編集]