志賀団

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志賀団(しがだん)は、古代日本の軍団の一つで、8世紀に近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)にあった。用字は慈賀団とも見える。

史料での確認[編集]

2つの史料で存在を確認できる。一つは天平宝字6年(762年)の「愛智郡司解」で、「慈賀団少毅従八位上吉身臣三田次」などが見える。国司の使者として、慈賀団の少毅が派遣されたものである。慈賀団とは滋賀団のことであろう[1]

また、天平神護2年(766年)7月26日に、近江国志賀団大毅少初位上建部公伊賀麻呂朝臣の姓を賜ったことが『続日本紀』によって知られる[2]

変遷の推定[編集]

軍団制の成立時期は学説が分かれるが、大宝律令が施行された大宝元年(701年)の段階では、志賀団は定員1000人の標準的な軍団であったろう。近江国に置かれたことが知られる軍団は志賀団だけだが、国の規模からは複数あったと考えるのが自然である。国府が所在する隣の栗太郡にもあったと想定する説がある[3]

全国的な軍団史を参照すると、養老3年(719年)に減員された可能性があり、天平11年(739年)に廃止され、天平18年(746年)に元に復した。上述の史料は復帰後にあたる。大毅、少毅が備わるのは、600人以上1000人までの軍団なので、当時の志賀団の規模もこれでおよそわかる[3]。全国的に減員される宝亀11年(780年)まではこの規模であったと考えられる。

その後の人数は不明で、延暦11年(792年)に廃止された。

脚注[編集]

  1. ^ 橋本裕「律令軍団一覧」、『律令軍団制の研究』157頁。松本政春「律令制下諸国軍団数について」、『奈良時代軍事制度の研究』30頁。新日本古典文学大系『続日本紀』四、129頁脚注19。
  2. ^ 『続日本紀』天平神護2年7月己卯(26日)条。
  3. ^ a b 松本政春「律令制下諸国軍団数について」、『奈良時代軍事制度の研究』30頁。

参考文献[編集]

  • 青木和夫、笹山晴生、稲岡耕二、白藤禮幸・校注『続日本紀』四(新日本古典文学大系15)、岩波書店、1995年。
  • 橋本裕「律令軍団一覧」、『律令軍団制の研究』(増補版)、吉川弘文館、1990年(初版は1982年発行)に所収。論文初出は『続日本紀研究』199号、1978年10月。
  • 松本政春「律令制下諸国軍団数について」、『奈良時代軍事制度の研究』、塙書房、2003年に所収。論文初出は『古代文化』32巻6号、1980年。