徐梁

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徐 梁(じょ りょう、中国語: 徐梁; 拼音: Xú Liáng; ウェード式: Hsü Liang1899年3月24日光緒25年2月13日)[1] - 1977年民国66年)6月20日)は、中華民国台湾)の軍人。任之盛京将軍管轄区奉天府遼陽州の人。

事績[編集]

遼陽県立中学を経て、南満医学堂予科に入学する。1917年民国6年)5月に東北陸軍(奉天派)に入隊し、1919年(民国8年)に保定陸軍軍官学校第8期騎兵科に入学した。1922年(民国11年)6月に卒業し、鎮威軍総司令部中尉として配属、まもなく騎兵集団軍司令部上尉を兼ねた。8月、黒竜江軍官養成所少校区隊長に転じる。翌1923年(民国12年)黒竜江省督軍公署少校参謀となった。以後、各職を歴任し、1927年(民国16年)2月、鎮威軍第3・第4方面軍団参謀に就任、1928年(民国17年)5月、東北陸軍騎兵第3旅第9団団長に昇進した。同年中に同旅第6団団長、第9団団長と横滑りしている。[2][3]

1931年(民国20年)4月、国民革命軍騎兵第31旅第41団団長に任命され、同年9月に中国国民党に加入した。1933年(民国22年)5月、騎兵第3師第1団団長に移り、翌年9月、廬山軍官訓練団第3期で訓練を受けている。1935年(民国24年)8月、騎兵第4師少将副師長に昇進し、翌年6月、第6師副師長に横滑りした。その翌月には長安軍官訓練団第2期第5隊少将隊長となり、9月に第3期少将総隊附となる。12月には西北剿匪総司令部高級参謀に起用され、1937年(民国26年)2月には国民政府軍事委員会委員長西安行営高級参謀となる。6月、江蘇省綏靖公署高級参謀となり、さらに騎兵第3師師長代理となった。8月、陸軍少将位を授与されている。[4][5]

1941年(民国30年)5月、徐梁は騎兵第2軍中将軍長に昇進、10月には国民党党部特派員を兼任した。1942年(民国31年)春、国民党中央訓練団党政班第20期で訓練を受けている。翌年10月、第15集団軍副総司令に昇進し、1945年(民国34年)3月には陸軍大学校将官班甲級第2期で訓練を受けた。同月、陸軍中将位を授与されている。[4][6]

日中戦争終結後の1946年(民国35年)に、徐梁は国防部部員となる。1947年(民国36年)9月、東北前線に派遣され、翌月には東北行轅騎兵司令に就任している。1948年(民国37年)2月、遼北省政府主席に起用され、5月には国民政府主席東北行轅政務委員会委員も兼ねた。同年10月、遼瀋戦役の敗北が確定する直前に、徐は飛行機で台湾に逃れている。翌1949年(民国38年)10月、敵後工作委員会委員に任命された。1977年(民国66年)6月20日、台北市にて病没。享年79(満78歳)。[4][6]

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  1. ^ 徐主編(2007)、1197頁による。劉国銘主編(2005)、1953頁は「1899年5月3日(清光緒25年3月24日)」生まれとしており、どちらかが旧暦と新暦を誤ったものと考えられる。仮に徐主編に従う。
  2. ^ 徐主編(2007)、1197-1198頁。
  3. ^ 劉国銘主編(2005)、1953頁。
  4. ^ a b c 徐主編(2007)、1198頁。
  5. ^ 劉国銘主編(2005)、1953-1954頁。
  6. ^ a b 劉国銘主編(2005)、1954頁。

参考文献[編集]

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
劉翰東
遼北省政府主席
1948年2月 - 12月?
次代
(廃止)