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引付衆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
引付頭人から転送)

引付衆(ひきつけしゅう)は、裁判の公正と迅速化をはかるために設置した鎌倉幕府の職名の一つ。

概要

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建長元年(1249年)、執権北条時頼のもとで、御家人間の訴訟、および地頭御家人を相手とする本所・領家の訴訟を迅速に処理するために設置された。引付は複数の「引付方」から編成され、各方は引付頭人・評定衆・引付衆・引付奉行人で構成された。設置当初は三方であったが、その後は三方から六方の間でたびたび改編され、文永6年(1269年)の再置後は概ね五方を維持した[1]

引付の管轄は、御家人間の訴訟と本所・領家が地頭御家人を相手とする訴訟から、次第に御家人の所務相論へ限定されていった。売買・質入れなど単なる財産権移転をめぐる訴訟は問注所へ移され、引付は政所・問注所で処理できない「難治事」も担当した[1]。時頼・長時の執権期には24人が引付衆に補任され、そのうち12人が評定衆へ昇任しており、引付衆から評定衆へ進む人事経路が形成されていた[2]

文永3年(1266年)3月6日にいったん廃止され、文永6年4月27日に五方として再置された[1]。再置は蒙古からの牒状が到来した直後であり、幕府の体制を整えようとする執権北条時宗の意図によるものとされる[3]

9代執権北条貞時平頼綱の粛清を皮切りに幕政改革を実施した際、その一環として一時的に引付は廃止され、執奏という役職が代理に設置されたが、ほんの一時的なもので、程なくして引付は復活した。

裁判は、まずは、原告が訴状を問注所に提出して、訴訟が適法かどうかを審査し、そののち引付奉行人に回送され、被告と原告の間で陳状・訴状のやりとりが3回行われる(これを三問三答という)。次いで引付の呼び出しにより原告と被告が出頭し、口頭弁論で対決する。その結果をみて引付で判決原案を作成され、評定で判決を下す。

設置以降、1284年弘安7年)までの就任者は『関東評定衆伝』に記載がある。

訴訟外の機能

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引付は寺社政策や一般政務にも関与した。文永元年(1264年)の追加法421条では、鎌倉中の諸堂供料に関する寺務・雑掌の不法を糾明するよう命じられ、弘安年間には将軍家寄進所領の管理、近国諸社の修理・祈祷・訴訟、鎌倉中諸堂の修理や寄進所領などが各引付方に割り当てられた[4]

鎌倉後期には北条氏一門、特に若年者の増加を引付の弱体化とみる説もある。一方、弘安7年(1284年)の引付衆には、父祖が引付衆・評定衆・政所執事などを務めた者が多く、家系内で実務経験が継承されていた可能性が指摘されている[5]。また、永仁3年(1295年)の『永仁三年記』には9か月間に46回、うち臨時評定3回の引付評定が記され、その開催日も正慶元年(1332年)まで変更されなかったとされることから、引付評定は幕府末期まで定例的に機能していたとみられている[6]

引付衆一覧

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脚注

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  1. 1 2 3 尹 2012, pp. 20–22.
  2. 尹 2012, pp. 22–23.
  3. 奥富敬之『時頼と時宗』(NHK出版、2000年)278頁。
  4. 尹 2012, pp. 25–27.
  5. 尹 2012, pp. 27–28.
  6. 尹 2012, p. 28.

参考文献

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  • 佐藤進一『鎌倉幕府訴訟制度の研究』(畝傍書房、1943年)
  • 尹漢湧「引付の訴訟外機能から見た執権政治の構造」『東京大学史料編纂所研究紀要』第22号、東京大学史料編纂所、2012年、20-37頁。 

関連項目

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