庾承先

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庾 承先(ゆ しょうせん、472年 - 531年)は、南朝梁学者隠者は子通。本貫潁川郡鄢陵県

経歴[編集]

若くして落ち着いた性格で志操堅固であり、言の是非を変えることがなかった。喜怒を顔色に表さず、他人にはその感情をうかがい知ることはできなかった。弱年のころに劉虯の学問を受け、記憶力が強く聡明博識で、同輩たちから傑出していた。道教仏教の経典には通暁していなかったが、諸子百家についてはみな研鑽して熟知していた。郡に功曹として召し出されたが就任せず、道士の王僧鎮とともに衡岳に遊んだ。長らくを経て弟の病のため郷里に帰り、土台山に居住した。鄱陽王蕭恢が州にいたとき、承先の風雅を尊んで、遊歴をともにした。蕭恢が承先に『老子』を講義させると、遠近の名僧たちが集まって議論したが、承先の応答はみながはじめて聞く説であった。蕭恢はますます承先を尊重するようになり、州主簿として召し出そうとしたが、承先は応じなかった。湘東王蕭繹が法曹参軍に任じようとしたが、承先はやはり赴任しなかった。

中大通3年(531年)、廬山劉慧斐荊州に向かうと、承先はかれと旧知であったことから、かれに従って赴いた。荊陝の学徒たちが承先に『老子』の講義を求め、湘東王蕭繹が出駕して聴講した。論議は終日におよび、深く賞賛されて、再講義を求められた。数カ月あまり滞在して、山に帰った。この年のうちに死去した。享年は60。

伝記資料[編集]