平群神手

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

平群 神手(へぐり の かむて、生没年不詳)は、飛鳥時代豪族

経歴[編集]

日本書紀[編集]

用明天皇2年(587年)の大臣蘇我馬子による大連物部守屋の討伐(丁未の乱)の際に、平群神手は大伴噛阿倍人坂本糠手らと軍兵を率いて志紀郡から渋河郡の守屋の家に到った、という[1]。正規の史書に名前が現れるのは、この箇所のみである。

椿井井戸[編集]

平群氏の春日神社および宮山塚古墳の近くに、若井村の弘法井、岩井村の岩井とともに、近年まで使用されており、平群三ツ井戸とされていた椿井井戸が存在する。神社の伝承によると、上述の守屋との戦いに苦戦した神手が、戦勝を祈願し、椿の杖をこの地に突き刺したという。すると、清水が湧き出して、井戸になった、と伝えられている。

春日神社の境内には真言宗椿井寺も存在したと伝えられ、興福寺の末寺で、興福寺官務牒疏に「椿井寺 在同(平群)郡椿井郷、号椿井山、坊舎十二宇、衆徒十三人、推古天皇四年(597年)丙辰年、厩戸皇子開基、本尊十一面大士、平群氏寺也」とある。本尊十一面観音像は文禄4年(1595年)2月宿院仏師源次らの作と伝わるがあるが、神仏分離の際に廃寺となっている。

聖徳太子伝暦[編集]

延喜17年(917年)成立したと言われている『聖徳太子伝暦』には、以下のような伝承が掲載されている。

聖徳太子35歳、推古天皇14年(607年)3月の時、太子が斑鳩宮から平群郡の椎坂の北の岡に行幸し、平群里・勢夜里、区徳里を望み、随従していた平群神手らに、平群里・区徳里は300年後に帝王(帝皇)の気があるが、勢夜里にはないという予言をしたとある。神手は驚愕して、親族を集め、太子を再拝し、を献上したが、太子は「自分は仏法に帰依しており、殺生を好まない、お前の献上したものは、私の好む物ではない、菓子や美華を持ってくるとよい」と返答した。神手は一門のものに雑花を献上し、太子は手を拍って呪願(祈りの言葉を捧げて仏や菩薩の加護を願うこと)の言葉を神手に与え、神手たちはさらに太子を再拝し、逡巡しつつ退出した、という。

脚注[編集]

  1. ^ 『日本書紀』崇峻天皇即位前紀用明天皇2年7月条

参考文献[編集]

  • 『日本書紀(四)』岩波文庫、1995年
  • 宇治谷孟『日本書紀 (下)』講談社講談社学術文庫〉、1988年
  • 『歴史散歩29 奈良県の歴史散歩 上 奈良北部』、「奈良県高等学校教科研究会歴史部会」、山川出版社、2007年
  • 『角川日本地名大辞典』、「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三;編、角川書店、「椿井」〈平群町〉項目、1990年
  • 『日本地名大系第30巻 奈良県の地名』、平凡社地方資料センター;編、平凡社p55、「椿井村」、1987年
  • 『古代地名大辞典』本編p604 -605、p836、p1293、角川書店、1999年

外部リンク[編集]