山中大火

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山中大火(やまなかたいか)は、1931年昭和6年)5月7日石川県江沼郡山中町(現・加賀市)で発生した大火。近代以降の山中町で最も大きな災害で、町の大半を焼失した。

経過[編集]

消火活動に使用した手引きガソリンポンプ車両

1931年(昭和6年)5月7日午前2時20分に本町第9区(現在の加賀市山中温泉本町2丁目付近)より出火し、午前7時15分に鎮火。一夜のうちに町の3分2を消失する[1][2]

原因[編集]

火の不始末により出火[1]。被害拡大の主に原因は以下とされている。

  1. フェーン現象と重なり火の勢いが増したこと[1]
  2. 消失前の山中町は家屋が密集し道幅の狭い細長い街であったこと[3]
  3. 防火水道の機能不全[4]

被害[編集]

被害の概要(焼失家屋数は文献により異なる)

  • 被害額:約600万円[1][2]
  • 焼失家屋:721戸(加賀市の調べ)[3] または800戸(山中町の調べ)[5]
  • 火災による死者:2名[1][2]
  • 重症者:2名[1][2]
  • 軽傷者:1名[1][2]

主な消失建物は、温泉旅館、郵便局、警察補派出所、町役場、裁判所出張所、駅舎、白山神社、小学校伝染病院、自転車製造会社、瓦期会社、銀行、運送会社など、町の主要施設も多く被害にあった。温泉旅館にいたっては、五名館、吉野家第二別館以外の温泉旅館が全焼。新設の共同浴場(総湯)も失った。山中漆器は全焼。商店は60軒の内53軒焼失[1][2]。また、焼失した建物の中には、建て替え直後の建物も多くあった。

災害時の人の動き[編集]

出火直後に駆けつけた北陸本線大聖寺駅駅長によると、出火当時、温泉に入浴中の浴客は約400名いた。妊婦や足腰の悪い高齢者も多くおり、死傷者も出た。また、勢いよく燃え広がる炎を前に、多くの住民は家財道具を持ち出すことも出来ずに避難した。避難先は、物産館の階上、公会堂、昭和クラブ、恩栄寺、灯明寺、または焼け残った親類の家など様々だった[1]

復興[編集]

大火翌日の早朝から瓦礫の整理や簡易バラックの制作が始まった。温泉電車山中停留所の焼け残ったホームを利用し、山中駅を開設。消防隊や在廊軍人団、青年訓練所員など、およそ700人が集まり、トラック8台を用いて瓦礫の整理を進めた。一方で、バラックの増設、電話、電灯の電柱の建設も行われた。

好天に恵まれたこともあり、整理は順調に進んだ。江沼郡女子青年団による炊き出しも行われた[6]

翌年の1932年(昭和7年)、昭和天皇香淳皇后より、2000円の見舞金が送られる。6月29日には義援金1回分の1万5047円30銭が791世帯に3669人に分配された[7]

当時日本は、世界恐慌の影響による昭和恐慌で不況のどん底であったため、物価が安かった(民家700円から1500円で二階建ての住宅や店舗を新設することができた。)[8]

5年後の1936年(昭和11年)には、新築の家屋は628戸に上り、観光客も火災前に比べ3割増加した。ダンスホール、天楼閣など近代的な設備を取り入れ、次々と宿泊施設が再建された。街中には当時珍しいエレベーターを備えた旅館が2軒もあった。全国的にも大規模な観光温泉として復興した[9]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 高橋武雄『えぬのくに 第27号』江沼地方史研究会、1982、46-48頁。 
  2. ^ a b c d e f 『山中消防のあゆみ』旧山中町消防団記念事業検討委員会、3月29日 2009、188頁。 
  3. ^ a b 牧野隆信『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 加賀・江沼』国書刊行会、11月15日 1979、110頁。 
  4. ^ 若林喜三郎 編『山中町史』山中町史刊行会、1959、186頁。 
  5. ^ 『山中温泉旅館協働組合 あゆみ』山中温泉旅館協同組合、4月 1984、77頁。 
  6. ^ 高橋武雄『えぬのくに 第27号』江沼地方史研究会、1982、45頁
  7. ^ 『山中消防のあゆみ』編集・発行 旧山中町消防団記念事業検討委員会、2009年3月29日、江沼郡の災害、188頁
  8. ^ 『山中温泉旅館協働組合 あゆみ』山中温泉旅館協働組合、1984年4月、77頁
  9. ^ 『えぬのくに 第28号』 江沼地方史研究会、69頁