小橋三四子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小橋 三四子(こばし みよこ、1883年(明治16年)7月23日 - 1922年(大正11年)5月11日)は、日本の明治期のジャーナリストである。1914(大正3)年、日本で最初の婦人面といわれる『読売新聞よみうり婦人付録』の編集主任となった。[1]

生涯[編集]

1883年(明治16年)、静岡県で小橋光次郎の次女として生まれた[1]。5歳で上京し、東京府立第一高等女学校(現・東京都立白鷗高等学校)に入学した。1901年(明治34年)、創設されたばかりの日本女子大学校(現・日本女子大学)国文学部に第一回生として入学した。この頃キリスト教に入信した。

1904年(明治37年)、日本女子大学校を卒業した。同校の卒業生組織として桜楓会が創設され、同校初代校長の成瀬仁蔵の要請に応えて橋本八重子(柳八重子)とともに同窓会誌 『家庭週報』 『家庭』 の編集人を務めた。その後、日本YWCAの機関紙 『明治の女子』 や、キリスト教婦人雑誌 『新女界』 (編集・海老名弾正、主筆・安井てつ)の編集に参加した[2]

1914年(大正3年)4月、読売新聞の記者として日本初の新聞婦人欄(現在でいうくらし家庭面)である 『よみうり婦人付録』 の主任編集者となった。1915年(大正4年)11月、独立して『婦人週報』 を創刊した (1919年7月11日まで編集人)[3]。女性に対する職業的訓練の必要性、女性の地位向上のための男性の覚醒を説いた。女性実業家・広岡浅子も執筆に協力した。また、婦人記者倶楽部づくりに奔走し、日本基督教婦人矯風会の公娼全廃運動にも参加した。1918年(大正7年)、婦人週報社より広岡浅子の自伝 『一週一信』を発行した[4]

1919年(大正8年)に渡米し、コロンビア大学を中心に婦人問題や新聞学などを学ぶ。1921年(大正10年)の帰国後、主婦之友社(現・主婦の友社)に入社し、『サンガー夫人会見記』を記した[2]。1922年(大正11年)5月11日、享年38歳にて急逝した。墓所は静岡市の長源院にある。

脚注[編集]

  1. ^ a b 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。 
  2. ^ a b 小橋三四子の生涯と広岡浅子”. 2023年1月3日閲覧。
  3. ^ 江刺昭子『女のくせに:草分けの女性新聞記者たち』インパクト出版会、19970125。ISBN 4-7554-0061-9 
  4. ^ 広岡浅子を理解するための一〇人(知人・友人編)” (2023年1月3日). 2023年1月3日閲覧。

関連人物[編集]