孔公恂
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孔 公恂(こう こうじゅん、1413年 - 1471年)は、明代の官僚。字は宗文。本貫は兗州府曲阜県。孔子の五十八世の孫とされる。
生涯
[編集]1454年(景泰5年)、会試を受験する予定だったが、母の病のため受験しなかった。景泰帝がその理由を知ると、使者を派遣して孔公恂を召し出し、翰林院に命じて紙と筆を給与させた。母が死去したため、孔公恂は帰郷して喪に服した。
1455年(景泰6年)10月、衍聖公孔彦縉が死去する[1]と、その嫡孫の孔弘緒は幼弱であったことから、景泰帝は礼部郎を派遣して喪を取り仕切らせ、孔公恂に孔家の家事を委ねた。1457年(天順元年)2月、孔公恂は礼科給事中に任じられた[2]。1463年(天順7年)2月[3]、大学士李賢は皇太子朱見深(後の成化帝)を輔導する人物として孔公恂と司馬恂を英宗に推挙した。その日のうちに孔公恂は詹事府少詹事に任じられ、皇太子に近侍して講読した。
1464年(天順8年)、成化帝(朱見深)が即位すると、孔公恂は大理寺左少卿に転じた。10月、孔公恂は法律に通じていないと自ら言上して、少詹事に復帰した。1466年(成化2年)、軍事について上奏し、武臣たちの反発を買い、給事中や御史たちに弾劾された。孔公恂は獄に下され、漢陽府知府に左遷された。着任しないうちに父が死去したため、辞職して喪に服した。1469年(成化5年)5月、南京少詹事として復帰した[4]。1471年(成化7年)11月癸卯、死去した[5]。享年は59。