姜登選

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姜登選
Jiang Dengxuan.jpg
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1880年光緒6年)[1]
死去: 1925年民国14年)11月26日
中華民国の旗 中華民国(北京政府)直隷省灤県
出身地: 清の旗 直隷省冀州南宮県[2]
職業: 軍人
各種表記
繁体字 姜登選
簡体字 姜登选
拼音 Jiāng Dēngxuǎn
和名表記: きょう とうせん
発音転記: ジャン ドンシュエン
ラテン字 Chiang Teng-hsüan
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姜 登選(きょう とうせん)は、清末民初の軍人。北京政府奉天派に属した。超六

事跡[編集]

朱慶瀾の腹心として[編集]

農業・商業兼業の富裕な家庭に生まれる。初めは学問を志したが、富国強兵路線の必要性を知ると、軍人の道を歩み始めた。1903年光緒29年)、官費により日本に軍事留学する。この時、黄興宋教仁の影響を受け、1904年(光緒30年)に中国同盟会に加入した。1908年(光緒34年)、陸軍士官学校砲兵科を卒業した。

帰国後は奉天巡防統領朱慶瀾の下で任用され、朱からその才能を評価される。朱が四川省に転任すると、姜もこれに随従し、陸軍第33混成協二等参謀官、四川陸軍小学堂総弁等をつとめた。1911年宣統3年)、四川で鉄道国有化反対運動と武昌起義が結びつき、四川総督趙爾豊が下野に追い込まれる。このとき、朱は成都で四川軍政府副都督に擁立され、姜も四川軍政府参謀総長に推薦された。しかし姜は、これを固辞している。まもなく、朱は兵士の反乱により失脚に追い込まれたため、姜は朱とともに四川省を退出した。

1912年民国元年)に保定陸軍軍官学校教官、翌年に貴州陸軍第1師参謀長に任命される。同年11月、四川時代の上司で黒竜江に赴任していた朱慶瀾の下に戻り、署黒竜江督軍公署参謀長に任命された。12月、陸軍少将の位を授与される。1914年(民国3年)6月には、鎮安右将軍行署参謀長として朱を補佐した。同年5月、朱が許蘭洲により下野に追い込まれると、姜もともに下野する。1916年(民国5年)、朱が広東省長に任命されると、姜はやはりこれに随従して補佐を続けた。

奉天派に属す[編集]

1917年(民国6年)、朱慶瀾が広東省長を辞職すると、姜登選もやはり辞職する。その後、北京に召還されて、姜は総統府咨議に任じられた。1922年(民国11年)、姜は奉天軍総参議として、奉天派張作霖に帰属する。同年4月の第1次奉直戦争で奉天派は敗北した。しかし姜自身は、工兵を率いて防衛線を建造し、奉天軍の退却を支援した。これにより張作霖の評価を受けた姜は、奉軍訓練総監、東三省陸軍整理処副統監等に任命される。姜は奉軍の建て直し、精鋭化に従事した。

1924年(民国13年)の第2次奉直戦争では、姜は鎮威軍第1軍軍長に任命され、活躍した。しかしこの過程で、同僚の郭松齢と対立が発生している。ただ、姜も郭同様に、軍縮・民力休養の考えは有していた。そのため張作霖や段祺瑞にその旨を進言したことがあるが、受け入れられなかった。

同僚に粛清される[編集]

1925年(民国14年)8月、姜は南下し、蘇皖剿匪司令、安徽軍務督弁に任じられた。しかし、姜は直隷派孫伝芳の攻撃を受けて、安徽から撤退する。姜は山東省張宗昌と連合し、孫に反撃したが、逆に大敗した。その後、奉軍第4方面軍軍団長に任命されている。

同年11月22日、郭松齢が張作霖に対して兵変を起こす。奉天省へ戻る途中の姜登選は、灤県を単身で訪問し、郭との面談を求めた。しかし姜は、その場で郭により拘束されてしまう。郭は、姜に兵変に加わるよう勧めたが、姜は大喝してこれを拒絶する。そのため郭は、姜を26日に銃殺刑に処した。享年46。

姜登選の人柄は、剛毅果敢、誠実、清廉にして、栄達・利益を求めないものであり、また、その軍紀も厳正であった。そのため、郷里の人々に、優れた印象を与えていたという[3]

[編集]

  1. ^ 『南宮市志』による。徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』は1881年(光緒7年)生まれとしている。
  2. ^ 『南宮市志』による。来新夏ほか『北洋軍閥史』、徐友春主編『民国人物大辞典増訂版』は、冀県の人としている。
  3. ^ 『南宮市志』 768頁

参考文献[編集]

 中華民国の旗 中華民国(北京政府)北京政府
先代:
鄭士琦
安徽督弁
1925年8月 - 11月
次代:
鄧如琢