奈佐忠行

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奈佐 忠行(なさ ただゆき、文久4年1月18日1864年2月25日[1] - 昭和9年(1934年6月22日)は、日本地質学者地理学者東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。専門は経済地理学[2]。旧静岡藩士で[3]、旧名本多 忠行[4]

人物・経歴[編集]

江戸に生まれる[3]。1876年に東京英語学校に入学した[5]。1881年に東京大学予備門を卒業する[4]。1885年に帝国大学理科大学(現・東京大学理学部地質学科を卒業し[3][6]理学士を取得し、福岡県立中学校教諭となる[3][5]

農商務省に入り、農商務二等技手[7]、農商務技師試補[8]地質調査所(現・産業技術総合研究所)五等技師などを歴任した[9]

1894年高等商業学校(現・一橋大学)教授に就任し、従七位に叙された[3]。1897年同校図書館の初代主幹となる[10]。1899年、従六位に叙され、に差遣され研究に従事した[11]。1902年帰国[12]

再びドイツ帝国フランス共和国両国に留学し[3][2]、1905年に帰国後[13]商品学を担当[14]。1906年から東京高等商業学校商品陳列所主幹を務めるなど、同所の整備に尽力した[15]

1909年に東京高等商業学校商業教員養成所主事となる[16]。1911年には正五位に叙された[17]。1920年に東京商科大学(現・一橋大学)附属商学専門部教授兼主事兼大学教授となる[18][注釈 1]。1922年には正四位に叙された[19]。1923年に関東大震災で商品陳列所を建物ごと失い再興を目指したが、叶わなかった[15]

1927年に従三位に叙される[20]。1928年に後進に譲るためとして自ら依願退官し、東京商科大学名誉教授の称号を受けた[15]。1934年死去[21]

編集[編集]

  • 『商工地理学日本地図』杉本七百丸 1896年
  • 『商工地理學:日本ノ部1巻』六盟館 1896年

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ これは東京高等商業学校から東京商科大学への改組に伴うものである。

出典[編集]

  1. ^ 『人事興信録 5版』(人事興信所、1918年)な4頁
  2. ^ a b "奈佐忠行". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2024年4月10日閲覧
  3. ^ a b c d e f 奈佐忠行 (初版 [明治36(1903)年4月 の情報)]日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース
  4. ^ a b 第一高等学校一覧 自大正5年至6年
  5. ^ a b 日本現今人名辞典 訂正2版
  6. ^ 東京帝国大学卒業生氏名録
  7. ^ 官報 1888年11月05日
  8. ^ 官報 1889年07月04日
  9. ^ 官報 1891年08月01日
  10. ^ 一橋大学附属図書館概要 2003/2004年度
  11. ^ 官報 1899年08月11日
  12. ^ 官報 1902年01月28日
  13. ^ 官報 1905年06月10日
  14. ^ 一橋商品学の伝統会Source Title 一橋論叢 Volume Number 91 Issue Number 4 Page Start 472 Page End 490 Appears in Collections 091巻4号 (1984.4)
  15. ^ a b c 小泉順也「一橋大学商品陳列室・商品標本室の歴史研究 : 草創期から国立移転まで』言語社会 Volume Number 14 Page Start 425 Page End 408
  16. ^ 東京商科大学一覧 昭和16年度
  17. ^ 官報 1911年12月12日
  18. ^ 東京商科大学一覧 昭和2年度
  19. ^ 官報 1922年02月13日
  20. ^ 東京商科大学教授奈佐忠行外五名叙位ノ件/陸軍少将浅田良逸
  21. ^ 官報 1934年06月28日
先代
佐野善作
東京高等商業学校商業教員養成所主事
1909年 - 1920年
次代
星野太郎
先代
新設
東京商科大学専門部主事
1920年 - 1927年
次代
堀光亀