天授庵
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天授庵 | |
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東庭 | |
所在地 | 京都府京都市左京区南禅寺福地町86-8 |
位置 | 北緯35度0分38.3秒 東経135度47分32.1秒 / 北緯35.010639度 東経135.792250度座標: 北緯35度0分38.3秒 東経135度47分32.1秒 / 北緯35.010639度 東経135.792250度 |
山号 | 瑞龍山 |
宗旨 | 臨済宗 |
宗派 | 臨済宗南禅寺派 |
寺格 | 南禅寺塔頭 |
本尊 | 釈迦如来 |
創建年 | 暦応2年(1339年) |
開山 | 無関普門(大明国師) |
開基 | 虎関師錬 |
中興年 | 慶長7年(1602年) |
中興 | 細川幽斎 |
文化財 | 絹本著色無関普門像、紙本墨画淡彩聖一国師像、方丈障壁画32面ほか(重要文化財) |
法人番号 | 6130005001090 |
天授庵(てんじゅあん)は、京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派の寺院。大本山南禅寺の塔頭。山号は瑞龍山。本尊は釈迦如来。南禅寺第15世である虎関師錬が南禅寺開山の無関普門(大明国師)を奉祀するための塔所として開いた[1]。
歴史
[編集]南禅寺開山の無関普門(大明国師)は正応4年12月12日(1292年1月3日)に東福寺龍吟庵で示寂した。しかし、南禅寺山内に開山の塔所がないことを遺憾に思った虎関師錬は、暦応2年(1339年) に光厳上皇から無関普門の塔所建立の勅許を得ると、翌暦応3年(1340年)に塔所として天授庵を建立した。
明徳4年(1393年)と文安4年(1447年)の南禅寺大火で焼失し、応仁の乱でも焼失した。戦国時代には衰退していたが、慶長7年(1602年)に歌人としても知られる細川幽斎により再興された[2]。
境内
[編集]- 方丈(京都市指定有形文化財) - 本堂。慶長7年(1602年)に細川幽斎によって再建。柿皮葺屋根の建物で、内部は長谷川等伯筆の障壁画で飾られている。
- 方丈前庭(東庭)「淵黙庭」 - 白砂の庭を苔に縁取られた菱形の畳石が横切る枯山水庭園で、切石を組み合わせた直線的な構成は小堀遠州の発案である。
- 庫裏 - 嘉永6年(1853年)再建。
- 書院
- 書院南庭 - 杉や楓が鬱蒼と茂る池泉回遊式庭園で、明治時代に改修されているが南北朝時代の面影を残す。
- 鎮守社
- 茶室「松関の席」 - 妙喜庵の茶室「待庵」を模したもの。1899年(明治32年)に現在地に移築。
- 普門殿 - 収蔵庫。
- 細川幽斎の墓
- 細川マリアの墓 - マリアは幽斎の妻。
- 細川家の墓
- 横井小楠の墓
- 新島民治の墓 - 民治は新島襄の父。
- 今尾景年の墓
- 正門
- 山門(京都市指定有形文化財) - 慶長7年(1602年)に細川幽斎によって再建。
文化財
[編集]重要文化財
[編集]- 木造大明国師像
- 絹本著色無関普門像 - 南禅寺の開山・無関普門自賛の頂相(肖像画)で、無関の生前に描かれたものとしては現存する唯一の寿像である[4]。
- 紙本墨画淡彩聖一国師(円爾)像 - 無関普門の師である円爾(えんに)自賛の像で、円爾自賛像としては最初期のものである[5]。
- 絹本著色平田慈均像2幅 - 東福寺の道山玄晟(どうざんげんじょう、無関普門の法嗣)の法嗣である平田慈均(へいでんじきん)の頂相(肖像画)で、平田最晩年期の姿が細やかな筆遣いで表されている。
- 絹本著色細川幽斎像・幽斎夫人像 - 武将であり茶人としても知られた細川幽斎とその夫人・細川マリアの像で、幽斎像には徳川家康の側近として幕政にも参加し「黒衣の宰相」と呼ばれた以心崇伝の賛が入っている[6]。
- 方丈障壁画32面
- 紙本墨画禅機図 16面(室中)
- 紙本墨画商山四皓図 8面(上間)
- 紙本墨画松鶴図 8面(下間)
- 九条袈裟(田相黄山道文綾 条葉紺繻子地諸尊花鳥文刺繍) - 無関普門所用と伝わる九条袈裟で、宋での滞在中にその師から贈られたものである[7]。
京都市指定有形文化財
[編集]- 方丈
- 山門
その他の文化財
[編集]アクセス
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 竹貫元勝『京都の禅寺散歩』、雄山閣、1994
- 岡田孝男『京の茶室 東山編』、学芸出版社、1989
- 東京国立博物館・京都国立博物館・朝日新聞社編『亀山法皇七〇〇年御忌記念 南禅寺』(展覧会図録)、2004