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大関和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
おおぜき ちか
大関 和
『実地看護法』著者像
生誕 (1858-05-23) 1858年5月23日
日本の旗 日本栃木県那須郡黒羽村
(現・大田原市
死没 (1932-05-22) 1932年5月22日(73歳没)
日本の旗 日本東京府東京市本郷区本郷弓町
(現・東京都文京区本郷のあたり)
国籍 日本の旗 日本
出身校 桜井女学校附属看護婦養成所
職業 看護婦(今日の看護師
著名な実績 派出看護婦の養成指導
代表作 『派出看護婦心得』
『実地看護法』
影響を受けたもの アグネス・ヴェッチ
宗教 キリスト教
1887年 植村正久より受洗[1]
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前列右より二人目が大関和(出典:『植村正久と其の時代 第5巻』)。日本看護歴史学会ウェブサイトによれば、撮影時期は1888年10月26日で、卒業記念のものと推定される[2]

大関 和(おおぜき ちか、1858年5月23日安政5年4月11日〉- 1932年昭和7年〉5月22日)は、日本看護師である[3][4]

経歴・人物

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出生から看護学校入学前まで

下野黒羽藩国家老であった大関増虎(弾右衛門)とその妻のテツの次女として生まれる[4]明治維新後、父は辞職し帰農を試みるがかなわず、一家あげて東京へ移り住み、そこで和は成長する[5]年頃を迎えると国元から縁談話が舞い込むようになり、1876年明治9年)、和が19歳のとき、黒羽藩の次席家老であった渡辺家の次男、渡辺福之進(豊綱[6])と結婚しやがて一男一女をもうけた[4][7]。しかし、福之進としょうの関係が清算されなかったこと[注釈 1]から離婚にいたって東京の実家へ戻る(上京は1881年〈明治14年〉のこと[6])。鹿鳴館文化が華やかな当時、上流家庭との交際や外国人と知り合う機会もあり、英語習得のため植村正久の弟正度まさのりが経営する正美英学塾に通うようになり[8][注釈 2]、正久とも親しくなってやがて師事した[7][9]。植村によって和の優れた資質を見出され、教育訓練を経た正規の看護婦となることを勧められたが、当初は武士階級出の自尊心に囚われて和は乗り気でなかった。度重なる植村からの説得を受けるうちに、苦しむ人を救う看護の道はキリスト教博愛精神にかなうことを理解し、志望してその道に進む[1]

看護婦を志してから

1886年(明治19年)春[10]桜井女学校に開設されたばかりの付属看護婦養成所に1期生として入学[1][4]。同期には一歳年長の鈴木雅がいた。学課1年・実習1年の通算2か年の教育課程で学ぶが、養成所には自前の実習施設がなかったため、1期生は帝国大学医科大学附属第一病院(現在の東京大学医学部附属病院)に実習生として派遣されることとなり[1]、そこで当時来日し赴任していたアグネス・ヴェッチから看護学の指導を受ける[11]。その間、1887年(明治20年)には、植村の一番町教会(のちの富士見町教会)において植村によりキリスト教に受洗している[1][9]。卒業後の1888年(明治21年)に日本初の近代教育を受講した看護婦の資格を取得する[7][9]

後に帝国大学医科大学附属第一医院における外科の看護婦取締役(看護婦長)や[4][9]1890年(明治23年)には新潟県の高田女学校(現在の上越高等学校)の伝道師及び看護婦等を務め[4]、後に上京し1896年(明治29年)には神田に桜井女学校時代の同期の鈴木が設立した東京看護婦会の教師や[3]、後に鈴木の後継者として会頭となり[4]日本キリスト教婦人矯風会の理事を務めるなど[11]、多くの役職を歴任した。また、1909年(明治42年)11月には神田猿楽町に大関看護婦会を開き[注釈 3]、みずから優良な看護婦の養成と派出看護業務の開始に乗り出した[12]。このほか、女性の地位向上のため、娼婦(セックスワーカー)廃止の訴えかけ[13]や、禁酒、婦人参政権運動などの面にわたって活動した実績を残している[11]

1932年昭和7年)5月22日23時20分、かねてから脳溢血のため病臥中[注釈 4]のところ病状悪化により、東京府東京市本郷区本郷弓町の大関看護婦会において死去。満73歳没 [15]

主な著作物

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  • 『派出看護婦心得』- 初版、1899年(明治32年)刊行[11]
    • 『派出看護婦心得』(6版)看護婦会、1921年11月15日。NDLJP:935171/58 
  • 『実地看護法』- 初版、1908年(明治41年)刊行[11]
    • 『実地看護法』(5版)新友館、1926年1月12日。NDLJP:921870/192 

脚注

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注釈

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  1. ^ 和との結婚前から福之進には側女とその子どもがいたが、旧縁を清算することが結婚話に応じるうえでの条件であった[5]
  2. ^ また、このころ、植村の母から一夫一婦を説くキリスト教の教えをきき、かつて妻妾同居の経験を味わった身から感化されて、大きくキリスト教の影響を受けている[8]
  3. ^ その後、大関看護婦会は神田錦町飯田町五丁目などに転々と移動[12]
  4. ^ 1930年(昭和5年)ごろに脳溢血で倒れて、軽い不随のまま臥床にあった[14]

出典

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  1. ^ a b c d e 近代史のおんな 1980, p. 128.
  2. ^ 日本看護歴史学会ウェブサイトトップページ”. 日本看護歴史学会事務局. 2025年12月10日閲覧。 “写真は、10月26日の卒業記念のものと思われる。” ※ トップページ上部の横スクロール画像のうち「桜井女学校の看護婦生徒とアグネス・ヴェッチ」のキャプションに記載。
  3. ^ a b 大関和」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E9%96%A2%E5%92%8C#w-1060386コトバンクより2023年2月2日閲覧 
  4. ^ a b c d e f g 大関和」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版、1994年11月。オリジナルの2023年2月2日時点におけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20230202143754/https://kotobank.jp/word/大関和-39311#:~:text=朝日日本歴史人物事典「大関和」の解説2023年2月2日閲覧 コトバンクより。
  5. ^ a b 近代史のおんな 1980, p. 126.
  6. ^ a b 本市出身大関和をモチーフにNHK連続テレビ小説「風、薫る」制作決定”. 大田原市 (2025年9月17日). 2025年12月8日閲覧。
  7. ^ a b c 大関 和(医療活動)”. 「日本キリスト教女性史(人物編)」ウェブサイト. 管理者不詳. 2023年2月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月2日閲覧。
  8. ^ a b 近代史のおんな 1980, p. 127.
  9. ^ a b c d 大関和」『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツhttps://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E9%96%A2%E5%92%8C#w-1640478コトバンクより2023年2月2日閲覧 
  10. ^ 植村正久と其の時代 1938, p. 751.
  11. ^ a b c d e 大関和」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E9%96%A2%E5%92%8C#w-1512445コトバンクより2023年2月2日閲覧 
  12. ^ a b 近代史のおんな 1980, p. 141.
  13. ^ 来年前期のNHK朝ドラは訪問看護の先達が主人公”. 会長ブログ. 公益財団法人笹川保健財団 (2025年8月22日). 2025年9月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年12月10日閲覧。
  14. ^ 近代史のおんな 1980, p. 144.
  15. ^ 佐波亘 編『植村正久と其の時代 第5巻』教文館、1938年9月28日、751頁。NDLJP:1261404/401 

参考文献

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関連文献

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関連項目

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外部リンク

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