夏粛初
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夏粛初 | |
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![]() 『最新支那要人伝』(1941年) | |
プロフィール | |
出生: | 1889年(清光緒15年) |
死去: | 不詳 |
出身地: |
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職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 夏肅初 |
簡体字: | 夏肃初 |
拼音: | Xià Sùchū |
ラテン字: | Hsia Szu-ch'u |
和名表記: | か しゅくしょ |
発音転記: | シャー・スーチュー |
夏 粛初(か しゅくしょ、1889年 - ?)は、中華民国の政治家。別号は旭初。中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会の要人。
事績[編集]
日本に留学し、京都府立第一中学、第一高等学校を卒業した。その後、ドイツにも留学し、ベルリン大学で学んでいる。帰国後は黄郛配下となり、行政院駐北平政務委員会で科長をつとめる。1935年(民国24年)12月に冀察政務委員会が成立すると、ここでも科長となった[1]。
1937年(民国26年)12月に中華民国臨時政府が成立すると、夏粛初はこれに参加している[2]。1938年(民国27年)9月、内政部(総長:王揖唐)が設立されると、夏は同部総務局長として王を支えた。
1940年(民国29年)3月、汪兆銘(汪精衛)が南京国民政府を樹立すると、夏粛初は考試院銓叙部常務次長に任ぜられる。5月、考試院秘書長に異動した[1]。1941年(民国30年)7月、華北政務委員会秘書庁庁長となり[3]、翌1942年(民国31年)4月11日、同委員会政務庁庁長に転任した[4]。1943年(民国32年)2月8日、政務庁長を罷免された[5][6]。
まもなく夏粛初は華北電電に入社し、同社審査室統理となる[7]。1943年(民国32年)6月29日、同社取締役に選任された(審査室統理も兼任)[8]。
1944年(民国33年)7月1日発行の『華文北電』(北電興亜会発行)[9]に夏粛初(肩書は審査室統理)の寄稿が見受けられるが、それ以降の行方は不詳である[10]。
脚注[編集]
- ^ a b 東亜問題調査会編(1941)、33頁。
- ^ 東亜問題調査会編(1941)、33頁によると、夏粛初はこの際に振済部局長に任ぜられた、としている。しかし劉ほか編(1995)、1022頁によると、振済部局長4人の中に夏粛初の名は見当たらない。
- ^ 劉ほか編(1995)、1057頁。
- ^ 『日文国民政府彙報』97号、1942年4月15日、中国和文出版社、1頁。秘書庁長免職及び政務庁長就任の辞令は同日交付となっている。
- ^ 『日文国民政府彙報』164号、1943年2月28日、中国和文出版社、1頁。
- ^ 劉ほか編(1995)、1058頁。
- ^ 『大東亜電気通信』3巻5号、1943年9月号、大東亜電気通信事務局、52頁。
- ^ 北電会編(1975)、107頁。
- ^ 4巻7期通号41号、3頁。
- ^ 北電会編(1975)、107-108頁でも、1945年8月までの華北電電取締役人事において夏粛初の異動に関する記述は無い。
参考文献[編集]
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
- 北電会編『華北電電事業史』電気通信協会、1975年。
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