堀三也
堀 三也(ほり さんや、1888年〈明治21年〉3月19日 - 1959年〈昭和34年〉9月1日 、旧姓・阿部)は、日本の陸軍軍人、実業家。陸軍砲兵大佐。軍需国策会社昭和通商社長。
兄は『三太郎の日記』等で知られる哲学者・美学者の阿部次郎。弟に動物学者の阿部余四男、日本史学者の竹岡勝也らがいる。動物生態学者の阿部襄は甥。
生涯
[編集]本籍山形県[1]。阿部富太郎・ゆき(旧姓・竹岡)夫妻の三男。後に母ゆきの実弟の医師・堀礼治の婿養子となり堀姓となる。妻の九重は、兄・次郎の婚約者であったが破談となっていた。
東京市小石川区の旧制豊山中学(現日本大学豊山高校)を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業[2]。同年12月、砲兵少尉に任官[2]。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業。陸大での修学時には、東大経済学部でも特別聴講生として学ぶ。陸軍省兵器局に配属された[3]。駐仏駐在武官補佐官も2年間務めている。
1932年(昭和7年)8月、陸軍省整備局動員課員となる。1933年(昭和8年)、全国経済調査機関連合会で「国家総動員の準備に就て」との講演を行い、陸軍内部でも論客として知られた[4][5]。由良要塞司令部員、独立山砲兵第1連隊長を務め、1936年(昭和11年)8月、砲兵大佐に昇進[1]。1937年(昭和12年)6月、商工省燃料局企画課長に就任[1]。陸軍の貧弱な石油備蓄を苦慮し、協同企業株式会社を設立させ、59万kl相当の買い付けを行った。1939年(昭和14年)3月9日に待命となり、同月20日、予備役に編入された[1]。その後、菅晴次の推薦で昭和通商に入社し専務に就任、後に社長となった。昭和通商は1945年(昭和20年)8月20日に解散し、清算事務を宮田準一常務(大倉商事出身)に任せ、翌年の現地担当者引き揚げにも携わった。
親族にはキリスト教徒が多かったが、自身も大正時代からカトリック信者で、ヨゼフ・フロジャック神父、大越菊次郎神父らと親交があった。
1959年(昭和34年)8月30日、東京の自宅で会社経営者の長兄・一郎の訃報を受け、まず31日に仙台市で既に病床にあった次兄・次郎を見舞い、すぐに長兄葬儀のため山形市を訪れ、翌9月1日に読経を終えた菩提寺住職に挨拶しようとしたところ、動脈瘤破裂で喀血し倒れ、その場で死去した。遺体は一郎の棺と並べられ、2日に急遽向かった息子たちに引き取られている[6]。一郎の葬儀は社葬として予定通り4日に執り行われた。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 旧制豊山中学、陸軍士官学校、陸軍大学校各名簿。
- 山本常雄『阿片と大砲 陸軍昭和通商の七年』PMC出版、1985年
- 佐野眞一『阿片王 満州の夜と霧』新潮社、2005年