土師身
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時代 | 飛鳥時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
氏族 | 土師 |
大化5年(649年)3月、異母弟の蘇我日向の讒言を受け、蘇我倉山田石川麻呂は山田寺で一族ともども自害に追いやられた。天皇は大伴狛と蘇我日向を将軍として石川麻呂を追わせたが、その軍が河内国丹比郡黒山(現在の大阪府堺市美原区黒山)に到着した際に、土師身・采女使主麻呂らが山田寺からかけつけ、「蘇我大臣は既に三男一女とともに、自経して死にました」と将軍たちに告げた、そこで将軍たちは丹比坂から引き返した、と伝えられている[1]。
参考文献
[編集]- 『日本書紀』(四)、岩波文庫、1995年
- 『日本書紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
- 『別冊歴史読本 古代人物総覧』、新人物往来社、1996年より「石川麻呂滅亡事件」(文:篠川賢)
脚注
[編集]- ^ 『日本書紀』孝徳天皇大化5年3月25日条