四井主馬
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四井 主馬(よつい しゅめ、生没年不詳)は、戦国時代、安土桃山時代の忍者(初代)[1] 。安土桃山時代、江戸時代初期の加賀藩士、富山藩士(二代)。四井は「しい」とも読む。
初め甲斐国の武田氏に仕えていたとされ[要出典]、後に加賀国の前田利家に仕え、加賀忍軍を率いていたという[2]。 天正13年(1585年)2月村井長頼に従い加賀・越中国境沿いの蓮沼城を攻めている[3]。 関ケ原では大聖寺城落城の際に利長の命により城内に火を放ち、後に前田利政に西軍の人質となっている利政室(蒲生氏郷の娘)の救出を命じられ、大坂に赴いたという[4] 。その後主馬が利政室を救出したとの記述は無く、結局利政は七尾から動かず西軍に味方したとされて改易になった。 なお、加賀忍軍は、大坂の陣終結後に解散されたとされるが、徳川方の警戒を解くための偽情報とも言われており、事実は定かではない[要出典]。
子の四井喜兵衛は利政の伏見在番衆として名前が見え[5]、元和侍帳では四井喜兵衛 百石と記され、御馬廻衆に属した。 その後父と同様に主馬を名乗った事が「寛永四年侍帳」に見える。寛永14年(1637年)本多政重・横山長知から、江戸金沢間の伝馬の賃金見積りを通知されている[6]。 同16年(1639年)前田利次の富山立藩に従い、30石を加増された[7]。承応4年(1655年)越中婦負郡内から年貢が納入され、主馬に23石が支給された記録が残る[8]。 二代藩主正甫の分限帳に四井氏の名前は見えず、絶家となった[9]。
登場する作品
[編集]- 『花の慶次 ―雲のかなたに―』(作:隆慶一郎、著:原哲夫)
- 『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』(NHK大河ドラマ、演:来須修二)
脚注
[編集]- ^ 『末森記』に、村井山崎計(はかり)にて四井主馬と云ひし夜盗(忍者)引具し、という記述がある。『末森記』P422、『前田家戦記集』P32.
- ^ 『荒山合戦記』に伊賀忍衆の偸組(ぬすみぐみ)が不動寺に火を放ったことが記されているが、四井主馬の名前は無い。『荒山合戦記』P404、『前田家戦記集』P13.
- ^ 『末森記』P422、『前田家戦記集』P32.
- ^ 『浅井畷軍記』、『前田家戦記集』P77.
- ^ 慶長3年9月25日(前田)利政判物 伏見番交名(三輪伝書)、『新修七尾市史3 武士編』P175~176.
- ^ 寛永14年3月14日中村新左衛門、原田又右衛門、副田権左衛門、四井主馬宛本多安房守(政重)横山山城守(長知)連署状『金沢市史 資料編6 近世四』P67~68.
- ^ 「御分国之砌御家中禄高帖」、『越中資料集成1』P4.
- ^ 承応4年4月21日婦負郡内長沼村百姓中宛 前田利次判物、『越中資料集成9』P446.
- ^ 「貞享3年富山藩武鑑」、「元禄3年正甫公分限帳」、『越中資料集成1』
参考文献
[編集]- 「末森記」、「荒山合戦記」、「浅井畷軍記」、『前田家戦記集』日置謙校訂 石川県図書館協会、1971
- 塙保己一 編『国立国会図書館デジタルコレクション 群書類従 第十四輯「荒山合戦記」』経済雑誌社、1893-1894、397‐406頁 。
- 塙保己一 編『国立国会図書館デジタルコレクション 群書類従 第十四輯「末森記」』経済雑誌社、1893-1894、407‐437頁 。
- 「国立国会図書館デジタルコレクション 元和之侍帳」『加賀藩初期の侍帳』石川県図書館協会、1942年、64頁 。
- 「国立国会図書館デジタルコレクション 寛永四年侍帳」『加賀藩初期の侍帳』石川県図書館協会、1942年、128頁 。
- 『加能郷土辞彙』日置謙編、金沢文化協会、1942
- 『新修七尾市史3 武士編』七尾市史編さん専門委員会編、2009
- 『金沢市史 資料編6 近世四(町政と城下)』金沢市史編さん委員会編、2000
- 山崎昭代著『越中古文書』「越中資料集成9」桂書房、1991
- 高瀬保編 近世文書を読む会解読『富山藩侍帳』「越中資料集成1」桂書房、1987