喜連川城

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大蔵ヶ崎城 / 喜連川城
栃木県
喜連川城址
喜連川城址
別名 蔵ヶ崎城、倉ヶ崎城
城郭構造 山城
築城主 塩谷惟広
築城年 1186年(文治2年)
主な城主 塩谷氏足利氏
廃城年 1870年(明治3年)
遺構 郭、土塁、空堀
指定文化財 市指定史跡
位置
地図
喜連川城の位置(栃木県内)
喜連川城
喜連川城

大蔵ヶ崎城(おおくらがさきじょう)または喜連川城(きつれがわじょう)は、現在の栃木県さくら市喜連川にあった日本の城である。蔵ヶ崎城(倉ヶ崎城)とも。

概要[編集]

喜連川丘陵の小高い山(お丸山)の頂上に建つ連郭式の山城であった。現在は跡が残っている。[1]

歴史[編集]

平安時代末期、塩谷五郎惟広により築城された。

惟広は源平合戦治承・寿永の乱)において源氏側で参戦し、元暦元年(1184年)2月の一ノ谷の戦い[2]文治元年(1185年)2月の屋島の戦いで戦功があり、塩谷氏の所領であった塩谷荘のうち現在の喜連川付近(当時は来連川)に相当する三千町[3]の領地を賜った。

文治2年(1186年)に惟広は大蔵ヶ崎城を築き、また土地の名を喜連川に改める[1]。これを以て惟広は喜連川塩谷氏の始祖とされる。

喜連川塩谷氏の血筋は4代で絶えたものの、同族の藤姓塩谷氏から養子を迎え入れ、塩谷氏の支配は合計17代400年に及んだ。

戦国時代に入ると、塩谷氏は同族の宇都宮氏から離反と帰参を繰り返し、また一族の内紛などもあり衰退。

そして17代・塩谷惟久が、豊臣秀吉による小田原征伐の際に遅参したとして改易される(秀吉の怒りを恐れた惟久が出奔したとする伝承もあり[4]。城址に立つ案内板にはその旨が記載されている)。

小田原征伐後には室町幕府将軍家・足利氏の後裔が入封することとなる。足利氏は戦国期には古河公方家小弓公方家に分裂し既に衰退していたが、名族である足利氏の断絶を惜しんだ豊臣秀吉が、男子の絶えた古河公方家の足利氏姫を小弓公方家頼純の子である足利国朝に娶わせ(元城主・塩谷惟久の正室でのち秀吉の側室となる嶋子(島子)が国朝の姉であり、嶋子がこれを取り成したとされる)、喜連川3500石を与えられる。

その後文禄の役従軍中に急死した国朝から家督を継いだ頼氏が氏姫と再婚して喜連川氏を称し、関ヶ原の戦い後に徳川家康から1000石を加増され喜連川藩を立藩。合計4500石程度に過ぎなかった喜連川氏が大名とされること自体が破格であったが、足利氏後裔という家柄が徳川家にも重んじられ、10万石格の格式が与えられたほか参勤交代義務の免除など様々な特権があった。(喜連川藩の歴史については当該項目を参照。)

この頼氏の代に城下が整備され、山城である喜連川城に代わって現在のさくら市喜連川庁舎付近に喜連川陣屋が建てられ[1]、以後はこちらを藩庁としていた。

喜連川氏の支配は280年間、幕末まで続き、明治時代1870年明治3年)[年号要検証]廃藩置県に先立って喜連川藩は封土を新政府に奉還。喜連川城も廃城となった。

お丸山公園[編集]

廃城後の城跡喜連川町(当時)によってお丸山公園として整備され、喜連川地区のシンボルとして観光拠点となっていた[5][6]。城の遺構としては一の堀、二の堀、三の堀、四の堀の空堀や[7]、土塁などが残されていた。

公園の敷地や斜面には300本の桜、フィールドアスレチック、文学の道があり[8]、春は花見の名所となっていた[9]。山頂には高さ49.5メートルの喜連川スカイタワーがあり、栃木県北部の山々などの景観を見渡すことができた[8][7]。タワーは公園のシンボルでもあり[9]、気象条件によっては富士山を見ることもできたという[7]。城址周辺の一帯は喜連川温泉となっており、お丸山の山頂にも温泉施設「老人福祉センター 喜連川城」があった[8]。市街地から山頂へのアクセス手段としては、日本初を公称する[7]、延長168.5メートル[8]の大型斜行エレベーター「シャトルエレベーター」が設置されていた。

2011年3月11日には東日本大震災による被災で敷地内に700メートルに渡る大規模な亀裂が生じたほか、公園内の各種施設が損壊したため、周辺への避難勧告が出され、お丸山公園への立ち入りも禁止された[9][5][6][10]。復旧の完了が2年後の2013年3月の見込みであるとされる中[5][6]、震災から半年後の2011年9月22日には平成23年台風第15号による風雨で土塁が幅70メートル、長さ約140メートルの土砂崩れが発生し、民家を巻き込む被害が生じた[10]。こうした中で公園自体の存廃も議論の争点となった[11]

2013年3月には土地部分の復旧工事が終了したが、損傷が激しく復旧にあたり多額の費用計上を必要とするスカイタワーなどの施設は再開の見通しが立たされていない。

注釈[編集]

  1. ^ a b c 旧喜連川町の紹介”. さくら市役所ホームページ. さくら市. 2016年9月11日閲覧。
  2. ^ 喜連川塩谷氏の系譜と『吾妻鏡』の記述による。ただし、『吾妻鏡』に源範頼軍に加わった武将として掲載された「塩谷五郎惟広」については、武蔵国児玉党塩谷氏塩谷維弘であるとする説もある。『矢板市史』では、児玉党塩谷氏の一族には、「維」や「弘」の字を使った者が多く、維弘の字が吾妻鏡の惟広と違うことから、「塩谷五郎惟広」は喜連川塩谷氏の惟広とする事が有力であるとする。
  3. ^ 秋田塩谷系譜は「塩谷荘十五郷」と記す。
  4. ^ 【小山評定の群像(72)】鎌倉の名門、戦乱に消える 塩谷惟久 - 産経ニュース2016年9月11日閲覧。
  5. ^ a b c “【さくら市議会一般質問】お丸山公園、13年に復旧 ミュージアム収蔵庫増設へ”. 下野新聞SOON (下野新聞社). (2011年6月10日). http://www.shimotsuke.co.jp/town/region/central/sakura/news/20110610/537732 2011年10月3日閲覧。 
  6. ^ a b c “月内にも再整備検討委 お丸山公園”. 下野新聞SOON (下野新聞社). (2011年7月16日). http://www.shimotsuke.co.jp/journal/politics/municipal/news/20110716/565970 2011年10月3日閲覧。 
  7. ^ a b c d 施設案内 公園”. さくら市役所ホームページ. さくら市. 2011年10月3日閲覧。
  8. ^ a b c d 『見たい・知りたい・遊びたい とちぎ探検隊 市町村ガイドブック 2004年度版』 下野新聞社2004年4月27日、92-94頁。ISBN 4-88286-238-7
  9. ^ a b c “水道復旧なお時間 知事、さくら・矢板など視察”. 下野新聞SOON (下野新聞社). (2011年3月28日). http://www.shimotsuke.co.jp/journal/politics/prefectural/news/20110327/483422 2011年10月3日閲覧。 
  10. ^ a b “揺れる地面、走る衝撃音 「まさか崩れるとは…」”. 下野新聞SOON (下野新聞社). (2011年9月23日). http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/local/news/20110922/616041 2011年10月3日閲覧。 
  11. ^ “公園存廃議論へ被災状況を視察 さくら 再整備検討委が初会合”. 下野新聞SOON (下野新聞社). (2011年8月2日). http://www.shimotsuke.co.jp/journal/politics/municipal/news/20110802/579097 2011年10月3日閲覧。 

関連項目[編集]