吉田嘉三郎
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吉田 嘉三郎(よしだ かさぶろう、1861年 - 1894年9月6日[1])は、日本の洋画家、教育者。
経歴
[編集]豊前国下毛郡(現・大分県中津市)で、代々中津藩の御用絵師を務めた晴野家に生まれる。幼少の頃より日本画を学び、中津市学校卒業後、1877年に京都の田村宗立が主宰する明治画学館に入門。
1881年第2回内国勧業博覧会に大分県を代表する洋画家として出品し、同年帰郷して母校中津市学校の助教諭となる。これと時期を前後して吉田家の養子となる[1]。1882年第1回内国絵画共進会、1884年第2回内国絵画共進会に出品[2]。
中津市学校廃止により、1886年上京し、本多錦吉郎の西洋画塾彰技堂に入門するが、同年9月福岡県尋常師範学校の助教諭に着任[1]。翌1887年5月[2](1889年3月との記載もあり[3])福岡県立尋常中学修猷館の美術の助教諭に着任(1892年8月まで勤務)。1891年同校の教え子であった上田博を養子に迎える(吉田博となる)[1]。
代表作に『海魚図』(油彩)、『婦人図』(油彩)(ともに制作年不明)。著書に『新定習画帖』(吉岡宝文軒、1888年)、『大成習画帖』(吉岡宝文軒、1889年)などの教科書がある[1]。
妻るいとの間に、一男(正男)四女(伊和、美智、ふじを、あぐり)があり、後に三女ふじおが吉田博と結婚し女流画家となる。1894年に33歳で死去[1]。