可朱渾孝裕

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可朱渾孝裕(かしゅこん こうゆう、537年 - 574年)は、中国北斉軍人は長挙[1]は孝裕[2]本貫太安郡狄那県[2]

経歴[編集]

可朱渾道元の子として生まれた。員外散騎侍郎を初任とした。ほどなく若曷直蕩第二副都督・直斎に任じられ、南営州新昌県を食幹とした。河清元年(562年)12月、父の扶風郡王の爵位を嗣いだ。直閤将軍の号を受けた。天統4年(568年)2月、儀同三司の位を受けた。5月、開府儀同三司に進んだ。東武県開国侯の別封と食邑800戸を受けた。武衛大将軍の号を受け、晋州南絳郡を食幹とした。武平4年(573年)5月、右衛大将軍の号を受けた[2]

ときに南朝陳呉明徹が北伐して寿陽城を包囲した。寿陽城が陥落すると、孝裕は王琳盧潜らとともに捕らえられた。王琳が殺害されたほかは、みな連行されて東冶に虜囚となった[3]。武平5年(574年)5月11日、孝裕は揚州で死去した。享年は38[2]。使持節・都督常安平南北二営五州諸軍事・尚書右僕射・司空公常州刺史の位を追贈された[4]。武平7年(576年)5月7日、城の西20里の野馬崗に埋葬された[5]

脚注[編集]

  1. ^ 北史 1974, p. 1901.
  2. ^ a b c d 羅新 & 葉煒 2005, p. 226.
  3. ^ 北史 1974, pp. 1085–1086.
  4. ^ 羅新 & 葉煒 2005, pp. 226–227.
  5. ^ 羅新 & 葉煒 2005, p. 227.

伝記資料[編集]

  • 北史』巻53 列伝第41
  • 斉故尚書右僕射司空公可朱渾扶風王墓誌銘(可朱渾孝裕墓誌)

参考文献[編集]

  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4 
  • 羅新; 葉煒『新出魏晋南北朝墓誌疏証』中華書局、2005年。ISBN 7-101-04320-8