及新

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株式会社 及新[1][2]
本社所在地 日本の旗 日本
岩手県釜石市浜町2-1-1[3]
設立 1951年昭和26年)7月1日[1]
業種 小売業
事業内容 百貨店
代表者 (3代目)谷沢茂市(社長)[4][注 1]
資本金 150万円[2]

980万円[1]

3000万円[3]
売上高 約5億円(1963年(昭和38年))[1]

約8億6000万円(1968年(昭和43年))[3]
従業員数 135[1]

245[3]
決算期 3月[9]
主要株主 谷沢茂市50%[9]
主要子会社 及新商事株式会社[4]
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及新[3]
店舗概要
所在地 岩手県釜石市浜町2-1-1[3]
開業日 1873年明治6年)6月1日[3]
敷地面積 891 m²[8]
延床面積 2,670 m²[3] 
商業施設面積 2,555 m²[3]
営業時間 9:30 - 18:00[3]
最寄駅 釜石駅
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及新(おいしん)は、岩手県釜石市にあった日本の百貨店である。

歴史・概要[編集]

1873年明治6年)6月1日[3](初代)谷沢茂市が岩手県釜石市仲町で[8]及新呉服店」を開き[2]、呉服太物や古着を販売したのが始まりである[8]

1927年昭和2年)に百貨店へ業態転換して、洋服・洋品・呉服などを販売するようになった[10]。 また、保険部を開設して[10]明治生命保険第一徴兵保険の代理店業務も行ったほか[5]、山林部も開設した[10]

しかし、第2次世界大戦の戦災により店舗が焼失したため、戦後すぐにバラックを建てて営業を再開した[8]

1951年(昭和26年)に当時の地方百貨店では珍しいショーウィンドウを持つ鉄筋コンクリート造3階建て・延べ床面積約680坪の店舗を新築して釜石市で唯一の百貨店となり[8]、同年7月1日[3]資本金150万円で「株式会社 及新」を設立して法人化した[2]

1960年(昭和35年)12月に釜石市浜町3-1に鉄筋コンクリート造4階建ての紳士コーナーを開設し、1962年(昭和37年)1月に3階建ての本館を地下1階・地上3階建てに増改築した[2]

1976年(昭和51年)1月2日及新百貨店の裏から出火して当店を含む16棟が全焼し、近隣の山林約240haにも延焼する火災が発生した[11]。 この火災を切っ掛けに[12]1980年(昭和55年)11月[13]20日に不渡手形を出して経営破綻し[12]、「オイシンマート」はマイヤに事業継承されて同月23日に営業を再開した[12]

年表[編集]

  • 1873年明治6年)6月1日[3] - (初代)谷沢茂市が岩手県釜石市仲町で[8]及新呉服店」を創業[2]
  • 1927年昭和2年) - 百貨店へ業態転換し、洋服・洋品・呉服などの販売を開始[10]
  • 1951年昭和26年)
    • ショーウィンドウを持つ鉄筋コンクリート造3階建て・延べ床面積約680坪の店舗を新築して釜石市で唯一の百貨店となる[8]
    • 7月1日[3] - 資本金150万円で「株式会社 及新」を設立して法人化[2]。。
  • 1953年(昭和28年)10月 - 資本金を480万円に増資[2]
  • 1960年(昭和35年)12月 - 釜石市浜町3-1に鉄筋コンクリート造4階建ての紳士コーナーを開設[2]
  • 1962年(昭和37年)
    • 1月 - 3階建ての本館を地下1階・地上3階建てに増改築[2]
    • 10月 - 資本金を980万円に増資[2]
  • 1963年(昭和38年)
  • 1964年(昭和39年)4月 - 釜石市只越町に及新マートを開店[2]
  • 1976年(昭和51年)1月2日 - 及新百貨店の裏から出火して全焼[11]
  • 1980年(昭和55年)
    • 11月[13]20日[12] - 不渡手形を出して経営破綻[12]
    • 11月23日 - 「オイシンマート」はマイヤに事業継承されて営業を再開[12]

かつて存在した店舗[編集]

  • 及新マート只越店[15](釜石市只越町1-3-4[16]1964年(昭和39年)4月1日開店[16]
鉄筋コンクリート造2階建て[2]、売場面積450m2[17]
売場面積198m2[18]
  • オイシンマート大町店(釜石市大町2-8[16]1970年(昭和45年)8月2日開店[16]
延べ床面積686m2[14]、売場面積515m2[14]
  • (初代)オイシンマート中妻店(釜石市栄町5-30[18][19]1964年(昭和39年)12月6日開店[16]
売場面積1,250m2[19] → 1,740m2[18]
  • (2代目)オイシンマート中妻店(釜石市、1980年(昭和55年)11月開店[20]
延べ床面積5,387m2[20]、売場面積2,124m2[20]
延べ床面積795m2[14]、売場面積400m2[17] → 722m2[14]


関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1901年(明治34年)6月に上閉伊郡大槌町で谷沢佐兵衛の次男として生まれ[5]、1920年(大正9年)に(初代)谷沢茂市の養子となって[5]1930年(昭和5年)に(3代目)谷沢茂市を襲名して「及新呉服店」の経営を継承した[4]明治生命保険第一徴兵保険の代理店も務めた[5]1946年(昭和21年)3月に釜石商工会議所会頭に就任し、1950年(昭和25年)9月に発起人として東北銀行の設立に参画して取締役に就任した[6]。また、釜石ガス取締役や資生堂盛岡販売取締役[7]、釜石専門店会会長[8]、岩手冷蔵監査役なども務めた[8]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 『デパート・ニューズ調査年鑑 1965年度版』 デパート・ニューズ社、1965年6月15日。pp286-287
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『繊維小売年鑑 1965年版』 繊維小売年鑑刊行会、1964年11月1日。pp661
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『デパート・ニューズ調査年鑑 1969年度版』 デパート・ニューズ社、1969年6月15日。pp261
  4. ^ a b c 『全国繊維企業要覧 昭和45年版』 信用交換所大阪本社、1969年9月15日。pp1789-1790
  5. ^ a b c d 新岩手日報社 『岩手県大鑑』 歴史図書社、1978年1月30日。pp715
  6. ^ 『人事興信録 第16版 下』 人事興信所、1951年11月15日。ppた102
  7. ^ 『日本繊維商社銘鑑 昭和39年版 上巻』 信用交換所大阪本社、1965年2月20日。pp481
  8. ^ a b c d e f g h i 『全国百貨店専門店会商店会取引業者総覧 昭和32年版』 デパート新聞社、1957年3月15日。pp91-92
  9. ^ a b 『日本会社録 第3版』 交詢社出版局、1963年11月15日。pp356
  10. ^ a b c d 『日本百貨店年鑑 昭和13年版』 日本百貨店通信社、1938年8月25日。pp1020
  11. ^ a b 『河北年鑑 昭和52年版』 河北新報社、1986年11月。 pp185
  12. ^ a b c d e f “激戦期八○年代/ローカルスーパーは生き残れるか ビッグチェーンの進出に播れる地元スーパー 岩手県”. 総合食品 1981年9月号 (総合食品研究所) (1981年9月).pp82
  13. ^ a b “55年の企業倒産、史上第2位の水準に”. 酒類食品統計月報 1981年2月号 (日刊経済通信社) (1981年2月).pp64-67
  14. ^ a b c d e f “激戦期八○年代/ローカルスーパーは生き残れるか ビッグチェーンの進出に播れる地元スーパー 岩手県”. 総合食品 1981年9月号 (総合食品研究所) (1981年9月).pp89
  15. ^ 『デパート・ニューズ調査年鑑 1970年度版』 デパート・ニューズ社、1970年6月15日。pp104
  16. ^ a b c d e f 『全国食品スーパー名鑑 1973年版』 食品新聞社、1973年1月20日。pp486
  17. ^ a b 『日本セルフ・サービス年鑑 1966年版』 日本セルフ・サービス協会、1965年11月10日。pp441
  18. ^ a b c d 『日本セルフ・サービス年鑑 1970年版』 日本セルフ・サービス協会、1970年3月20日。pp146
  19. ^ a b 『日本セルフ・サービス年鑑 1968年版』 日本セルフ・サービス協会、1968年3月20日。pp157
  20. ^ a b c “激戦期八○年代/ローカルスーパーは生き残れるか ビッグチェーンの進出に播れる地元スーパー 岩手県”. 総合食品 1981年9月号 (総合食品研究所) (1981年9月).pp85
  21. ^ 『日本セルフ・サービス年鑑 1968年版』 日本セルフ・サービス協会、1968年3月20日。pp160