原弘三
原 弘三(はら こうぞう、1841年1月21日(天保11年12月29日[1])- 1915年(大正4年)7月30日[1][2][3])は、幕末の僧、明治期の公吏・政治家・銀行家。衆議院議員。幼名・僧云(そううん)[1]。
経歴
[編集]越中国新川郡塚原村[1](石川県上新川郡塚原村、富山県[2]上新川郡新保村[3]、富南村を経て現富山市塚原)で、浄土真宗本願寺派教順寺・9世玄正(げんしょう)の長男として生まれた[1]。京都の真宗学林(現龍谷大学)、高岡の野上文山の待賢堂、豊後国日田の咸宜園で学んだ[1]。1868年(明治元年)還俗して原弘三を名乗り[1]、東京湯島の亀谷省軒塾に入る[1]。富山藩改革派林太仲と知り合う[1]。
1870年(明治3年9月)太仲が富山藩大参事に就任すると[1]、原も権小属となり[1]、同年12月19日(同3年閏10月27日)に発せられた「合寺令」に基づき藩内400余カ寺を一宗一寺に合併を強行した(富山藩合寺事件)[1][4]。寺院、民衆の強い反発を受けてこの政策は頓挫し[4]、1871年(明治4年)に免官となる[1]。
1873年(明治6年)から盛岡警察署長(現盛岡東警察署)、茨城県学務課長、同県豊田郡長、同結城郡長、同岡田郡長、秋田女子師範学校長、秋田県南秋田郡長兼河辺郡長、同仙北郡長などを歴任[1][2][3]。1889年(明治22年)7月、富山県婦負郡長となる[1][2][3]。
1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(富山県第1区、中央交渉会)で当選し[1][5]、1894年(明治27年)3月の第3回総選挙(富山県第1区、無所属)でも再選され[5]、衆議院議員に連続2期在任した[2][3]。
1894年7月、富山県射水郡長に就任[1][2][3]。その後、新保村会議員、内野銀行頭取、越中商行銀行頭取などを務めた[1][2][3]。晩年は合寺事件で解体した生家・教順寺本堂の再建に尽力した[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。226
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『富山大百科事典 下巻』北日本新聞社、1994年。