葛山氏広

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葛山 氏広
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 天文7年(1538年)もしくは天文8年(1539年
別名 仮名:八郎
受領名:中務少輔[1]
諡号 竜光院殿大円登雲大居士[2][3]
主君 今川氏親氏輝義元北条氏綱
氏族 備中伊勢氏後北条氏) → 葛山氏
父母 父:北条早雲
兄弟 北条氏綱北条氏時氏広、長松院殿(三浦氏員室のち高橋高種室)、北条幻庵
養子:葛山氏元
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葛山 氏広(かつらやま うじひろ)は、戦国時代の武将。駿河葛山氏当主。伊勢宗瑞(北条早雲)の子。北条氏綱の弟であり、今川氏親の従兄弟にあたる。

生涯[編集]

伊勢宗瑞(北条早雲)の子として生まれる[注釈 3]北条氏綱の弟にあたり、氏時(生年未詳)と宗哲(幻庵、1493年、一説に1501年)の間に生まれたと考えられている。

永正10年(1513年)以前に元服し、駿河国東部の国人領主・葛山氏の養子となって家督を継承した。宗瑞の側室に葛山氏の娘がいたとされ(「豆相記」)、このことが縁で葛山氏の養子になったと考えられている。

葛山氏は今川氏に従属する存在であったが氏広の家督継承によって今川氏の御一家に列し、御一家の中では今川氏庶流である今川民部少輔瀬名氏貞に次ぐ家格であった(「為広駿州下向日記」)。氏広が御一家に列したのは父の宗瑞が今川氏親の母方の叔父であったためとされ、実名の「氏」は氏親から偏諱を受けたと考えられている。

大永4年(1524年)正月に家臣関孫九郎に所領を与えているのが初見。駿府に屋敷を構え、今川氏の下では奏者を務めている。 天文元年(1532年)4月13日には、官途名中務少輔を称している[3]。同6年(1537年)に今川義元と長兄・氏綱が争った(河東一乱)際には氏綱側に味方している。

同7年(1538年)9月には重病に陥っていたようで、鶴岡八幡宮から祈願のために大般若経を転読してもらっている。翌8年(1539年)4月には死去が確認されるが、詳しい死亡時期は不明。家督は葛山氏元が継承した。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 黒田基樹・池上裕子説
  2. ^ 有光友學説
  3. ^ 出自については伊勢宗瑞(北条早雲)の子とする説[注釈 1]と、伊勢宗瑞の次男・北条氏時の子(すなわち宗瑞の孫)とする説[注釈 2]が提唱され、花押系からしていずれにしても後北条氏の一族と考えられてきた[4]が、冷泉為広が駿河に下向した際の記録(「為広駿州下向日記」)に、今川氏の御一家として「早雲子也、葛山八郎」と記されていることで宗瑞の子であることが確定し、永正10年以前に元服して葛山氏を継承していることが確定した。

出典[編集]

  1. ^ 『為和集』
  2. ^ 『駿河志料』
  3. ^ a b 北条早雲とその一族 2007, pp. 41.
  4. ^ 有光友學「戦国期葛山氏の系譜と「氏時」」『戦国史研究』11号、1986年。 /所収:有光友學「葛山氏の系譜」『戦国史料の世界』岩田書院、2009年。 

参考文献[編集]

  • 『戦国の魁早雲と北条一族―北条五代百年の興亡の軌跡』新人物往来社、2005年、ISBN 4404033168
  • 黒田基樹『北条早雲とその一族』新人物往来社、2007年7月。ISBN 978-4-404-03458-8 
  • 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年6月。ISBN 978-4-864-03289-6