加倉井砂山

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加倉井 砂山(かくらい さざん、文化2年(1805年) - 安政2年(1855年))は、江戸時代末期の日本の教育者、漢詩人。贈正五位。

加倉井氏は甲斐国南部郷の波木井氏から出たといわれ、鎌倉時代に加倉井(水戸市)に所領を得た。加倉井氏は常陸江戸氏の五大家老となり、領地に館と土塁を築いて戦国期には勢力となったが、天正年間に佐竹氏に滅ぼされ成沢(水戸市)に所領を得て帰農し代々庄屋を勤めてきた。

当主である長兄が没したため砂山は16歳で家督を継ぎ、同族の加倉井忠珍から教育を受け、父久泰が開いていた私塾日新塾の補佐役として子弟の教育にあたり、20歳頃から教育に専念するようになった。

日新塾では文において読書(四書五経史記など)、医学、算数、歴史、理科、詩文、天文、地理、また武においては練兵(洋式軍事教練も重視された)、撃剣、馬術、射撃、砲術(砂山は江戸へ出た折り高島流砲術を修め、日新塾へ導入している)と文武両道の教育方針が採られた。

砂山は一党一派に思想が偏ることを好まず、各方面に国家有用の人物をつくるという方針のもと個性尊重教育、女子教育をしたことは水戸学が主流であった水戸藩では珍しく、日新塾で学んだ塾生は三十年間で三千人にも及び、門人の中には藤田小四郎飯田軍蔵天狗党の乱)、斉藤監物鯉淵要人桜田門外の変)、河野顕三坂下門外の変)、香川敬三(枢密顧問官)、川崎八右衛門東京川崎財閥創始者、砂山の娘と結婚)など多彩な人物を輩出した。

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