加久藤城

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加久藤城
宮崎県
城郭構造 平山城
天守構造 建造されず
築城主 北原氏
築城年 応永年間(1394年-1427年
主な改修者 島津義弘
主な城主 北原氏島津氏
廃城年 元和元年(1615年
遺構 土塁、堀、土橋、虎口
位置 北緯32度3分25.30秒
東経130度49分20.14秒

加久藤城(かくとうじょう)は現在の宮崎県えびの市加久藤にあった平山城伊東氏の史料には「覚頭城」と当て字されている。

概要[編集]

比高53mほどの独立した丘陵上にあり、城の周囲が断崖となっている要害の城。また北側にあった鑰掛口は「鑰掛うど」と呼ばれる絶壁であった。

南東の大手門を守る城として「新城」が、西方の徳泉寺に通じる徳泉寺口を守る位置に樺山浄慶屋敷(浄慶城)が存在した。

木崎原の戦い」で島津義弘が陣を敷いた二八坂のある大明司を挟んで、東に4kmほどの場所にある飯野城とは連絡路で結ばれており、その路上には西から大明神城掃部城宮之城の順で三つの塁が存在した。

歴史[編集]

応永年間(1394年1428年)に北原氏が、真幸院小田村の山に「久藤城(ひさふじじょう)」として築き徳満城の支城とした。永禄5年(1562年)に北原氏が滅ぶと島津氏の所有となり、島津義弘により中城と新城を加えられ、それらを縄張りに加えて「加久藤城」と名を改められた。

川上忠智を城代とし、義弘の正室(広瀬氏)と嫡子の鶴寿丸(つるひさまる)を住まわせていたが、元亀3年(1572年)5月4日に「木崎原の戦い」が起こる。伊東氏の軍勢は間違えて樺山浄慶の屋敷を攻撃後、計略に掛かり鑰掛口から城を攻撃する。 忠智は遠矢良賢が率いる飯野城からの援軍らと共にこれを撃退せしめた。

天正4年(1576年)に鶴寿丸が8歳で病死すると、城中に墓をつくり葬った。現在、城へ向かう途中にある墓石は、明治元年頃に神道式に改築されたものである。 また義弘は、飯野城近くの地頭仮屋があった場所(現・えびの市役所 飯野出張所敷地内)に鶴寿丸の供養樹を植えており、現在も「飯野の大イチョウ」として残っている。

元和元年(1615年)の一国一城令により廃城

関連項目[編集]